時計の価値とは何か


腕時計が嫌いだ。


特に夏場。金属製、革製あるいはビニールといずれのバンドであっても、
汗をかくと気持ち悪い。もちろん冬は、あのひんやりとした感覚を好き
になれない。要するに時計などしなくてすむのなら、それに越したこと
はない。


幸か不幸か、分刻みで人と会う約束があるような毎日じゃない。事務所
(兼自宅)で書き物仕事をしている分には、だいたい1時間単位で区切
りをつけるようにしているぐらい。それで充分だ。


打合せのために外に出るにしても、その数は一日に多くて2件。街にい
ればあちらこちらに時計はあるし、なければ携帯をみればいい。ただ一
つ、時間を気にする必要があるのは、インタビューのときだ。忙しい中、
こちらの質問に付き合ってくれる相手の時間は、可能な限り大切に扱い
たいから、このときだけは必ず時計をしていく。


とはいえ、いくら正確を期すといっても秒単位までのこだわりはない。
ゴルゴ13がつけてるオメガみたいなんじゃなく、ごく普通の時計で事
足りる。


だから、何十万、あるいは何百万もする時計の存在が、不思議なのだ。
飾りに宝石がついているのなら、理解できないことはない。それには宝
飾品としての価値があるはずだ。指輪やネックレスみたいなもんだろう。


でも、高額ウォッチのほとんどが、そんなキラキラ時計じゃない。確か
にデザインが際立っていることはわかる。中のメカニズムも、例えばス
イス最高の職人が手技の限りを尽くして組み立てた精緻きわまりない仕
上がりとなっているのだろう。


そこに芸術的価値があるのだ、といわれれば、そうですか、とうなずく
しかない。しかも、それが商品として売買されているのだから、その価
値を認め、ふさわしい対価を支払っている人がいるわけだ。そのことに
いちゃもんをつけるつもりもない。文化の深みは、そうしたゆとりのよ
うなところからしか生まれてこないことも理解している。


ただ、やはり時計は道具だと思う。使ってなんぼのもんじゃないだろう
か。その意味ではガラス面とかにこすれた痕がいっぱいあるような時計
(実は何百万円)をさりげなくしてるのは、カッコいいといえるかな。
金持ち、自慢せずの世界だ。それが実はオヤジの形見だったりして、で
もメカがしっかりしてるから、もう50年もほとんど遅れずに動いてん
だよって、ボソッと付け加えたりするのは、かなりいい感じかな。


そんな腕時計には、その人の人生観が反映されてもいるだろう。それは
それでいい。


でもね、個人的には、たかが腕時計で人生観を語りたいとも思わない。
そこにこれみよがし的要素が入ってくると、かなりかっこわるくなるし
ね。


もちろん腕時計が好きじゃないからといって、時間にルーズなんてこと
もない。数少ない『きっぱりと人に自慢できるリスト』の中には、取材
に遅れたこと一度もなし、って項目があるぐらいだ。人との待ち合わせ
もほぼ95%は先に行って、ゆとりを持つように心がけている。


そんな時でも、別に腕時計なんかいらないんだけど。







昨日の稽古:

 富雄中学体育館:19時〜20時40分
 <少年部> 
 ・縄跳び、腕立て、腹筋、背筋
 ・基本稽古
 ・ミット稽古/回し蹴り、回し蹴りの受け

 <一般部>
 ・プロテクターをつけた相手への突きの稽古(30秒セット)