目標のない人生に意味はないのか


一昨日のエントリーでは、日本電産・永守社長の大ボラ〜夢〜一日決算
主義を取り上げた。結論としては、大ボラとも思える目標を立てて、そ
れに向かいながら、5年後の夢を必ず達成するための毎日の行動計画を
こなしていくことが、Q.O.Lを高める。なんてことになったのだが、さて。


複眼的に考えるために、自分で、反対側に頭を振ってみることにする。


となるとたてるべき問いはこうなるだろう。すなわち「目標のない人生
に意味はないのか?」 目標に向かって、毎日少しずつ、でもきっちり
と進んでいく人生だけがいいのだろうか。そうでなければ人生に意味は
ないのか。


たとえば。その昔の賢人・老子は、無為自然なる生き方をもって善しと
した。目の前に働いている大自然の摂理を見極め、これに逆行する不自
然な発想をとりのぞく生き方である。浪人時代に読んで以来だから、そ
の内容はほとんど忘れているが、どちらかといえば目標設定型の生き方
は否定的に語られていたような記憶がある。


これまた、その昔、少しかじったバラモン教典にも、究極の生き方とは
風のように生きること、とあった。


妙なたとえになるが、毎日、犬の散歩に付き合っていてつくづく思うの
は、この子はこれでとても自由に生きているのではないかということ。
首輪やリードにつながれ、行動範囲も限られているのに、どこが自由な
んだという反論は当然ある。でも、こいつは自由だよなと思わずにいら
れない。


なぜなら、犬には時間の観念がない(ようにしか思えない)からだろう。
将来に達成すべき目標などからは、まったくフリーである。いま、この
瞬間に、与えられた状況の中で、自分にとって最も『快』な状態を選択
して生きている。これを自由と呼ばずして、何が自由か。明日という概
念さえなければ、人ももっと自由に生きられるのかもしれない。


逆に考えれば、人間が目標などという七面倒くさい考え方を持ち出すの
は、明日が必ず来ることを知っているからではないのか。明日の次には、
さらに明日が続く。そして、やがては自分が死んでいくこともわかって
いる。だからこそ、明日すぐには無理だとしても、何年か先には「こう
なっていたい」という願望を抱くのではないだろうか。


あるいは、子をもつ親なら、この子が大きくなったときには「こんなふ
うな環境の下にいさせてやりたい」と考える。これが夢なのだと思う。


そんな夢を叶えるための時間が期限付きであることもわかっている。そ
れがいつなのかをはっきりと予言することはできないものの、自分の人
生が無限でないことだけは、誰もが理解している。そこで限られた時間
の中で、何とか夢をかなえたいと思う。


だから目標を掲げて、それに向かって近づけるように日々を過ごす。そ
んな生き方に価値を見出そうとしているのではないだろうか。


ここでもう一度、最初の質問に戻ってみる。


「目標のない人生に意味はないのか?」 もし明日を考えないのであれ
ば、明日に何も期待しないのであれば、それもいいのではないだろうか。




昨日のI/O

In:
S社・社長インタビュー
『パフォーマンス・マネジメント/島宗 理』
Out:
澤教授・インタビューメモ



昨日の稽古:

拳立て、腹筋
・立禅
・アイソメトリックトレーニン