野洲高校の勝因は位取り


高校サッカーを準々決勝からきちんと見た。こんなの初めてのことだ。


野洲高校が出ていたからだ。最初は、20年以上前にこの地に住んでいたことがあるので、懐かしさで何となく応援しようかといった軽い気持ちである。しかし、その試合ぶりを見てびっくりした。ワクワクさせるのだ。


それから新聞を読んでいると、野洲のサッカーは特別、みたいな評価がされている。確かにそうだと思った。そんなに熱心なサッカーファンではなく、時々だけれどもちゃんと見るようになったのはJリーグができてからのこと。これまでに、サッカーの試合を見ていてすごいなあと思ったことは10回もないぐらいだ。


でも野洲高校には驚かされた。一体、彼らの何がすごかったのか。


もちろん、言われているようにテクニックががすごいわけだが、そうしたテクニックを平然として出せる精神状態こそがすごいと思った。これは武道(特に剣道、しかも柳生新陰流)でいう言葉だが、野洲の選手はあきらかに『位取り』で勝っていたと思う。


『位』とは、ものすごく単純にいってしまうと、相手と向かい合った時の気持ちの持ち方だ。これはただ気迫が上回っていればいいというものではない。気迫だけなら、たぶん鹿児島実業の選手の方があったように思う。


そうではなくて、集中している上での「心のゆとり」のようなものである。相手をのんでかかる、という言い方が当たっているのかもしれない。だから、あわてない。自然体でいられる。


もちろん、そのためには技術的な裏付けがなければならない。そして技術面で自信を持つためには、相当な練習量をこなしているはずだ。ここまでは鹿児島実業の選手も同じか、あるいは彼らの方がきついことをこなしてきたのかもしれない。テレビの解説を聞いている限りではそんな印象も受けた。


しかし、試合を見ていると明らかに決定的な違いがあった。


それが位取りである。野洲の選手は、特に一対三ぐらいまでの局面なら、位取りで完全に勝っていたと思う。だから相手に囲まれても、あえてペースダウンすることができる。それが、相手にとっては、ものすごく意外な行動に思えたはずだ。すると形は密集していても、意識に隙間ができる。


そこを見逃さない。


今度は一瞬にしてペースを上げる。だから抜ける。延長での決勝点の入り方などは、相手選手を気持ちの上では完全に子ども扱いしていたのではないだろうか。じゃ、なければ、あそこでヒールパスは出せないだろう。そしてあのヒール一発で、得点への流れが生まれた。


一人ひとりの選手が『位取り』で勝る。そのためには、やはり個人がきちんと自立していることが大切だ。このあたりは推測に過ぎないが、指導者の考え方も大きく影響しているのではないだろうか。


野洲の監督がやったのは、おそらく質の高いコーチング。個々の適性を見極めて、そのタレントを伸ばすような後押しである。一方鹿児島の先生は、自らの指導力を存分に発揮してきつい練習で生徒を引っ張った。


その結果、到達したレベルは、どちらの選手もそれほど変わらないのだと思う。しかし、ポイントはそこにどうやって行き着いたかである。強力な指導者に引っ張り上げられたのか、おもに自らの力で上り詰めて行ったのかでは、大きな違いがでるはずだ。その違いが『位取り』に出たのだと思う。


最終的には、自らを信じて『位取り』にまさる野洲が勝った。決勝戦の後、勝った野洲も、破れた鹿児島も同じように泣いてはいたが、仮に結果が逆になっていたら、野洲の選手は泣かなかったんじゃないか。そんなことも思った。




昨日のI/O

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『パフォーマンス・マネジメント/島 宗理』
意味がなければスイングはない村上春樹
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