卒論コワい


22年前のちょうど今頃のことだ。


『遊びの社会学』なるテーマで、卒論を書くのに往生していた。そもそも卒論とは何か、どう書けばいいのかがまったくわかっていなかったのだから、とんでもない話なんだけれど。ともかく原稿用紙にして35枚は書け(50枚が限度だったと記憶する)、引用はきっちりと明記せよ。などなどさすがに形式的なことだけは知っていた。しかし、さて卒論とレポートの違いはと問われれば、それさえ答えられなかったに違いない。


もし、あのとき、内田先生のブログを読むことができていたら、さすがにあの卒論を出すのは取り下げていただろう。
http://blog.tatsuru.com/archives/001501.php


なるほど。そもそも卒論を出す前には「卒論研究計画書」を作るべきだったのだ。もしかしたら、卒論ゼミでやってたんだろうか。そのゼミすら3回ぐらいしか出ていないのでわからないんだけれど、うちの大学はとにかく放任主義というか、何でも勝手にやればいいという学風で知られる。これを自由というのだか、自由には自己責任である。だから結果がダメだったら、それは自分でおとしまえをつけなさいってことなので、多分そんな手取り足取り的には教えてくれてないはずだ。


ともかく卒論とはつぎのような内容であるべきものだったのだ。少しだけ引用させていただく。

具体的に「卒論研究計画書」には次のようなことを書きます。
(1) 研究テーマ
(2) なぜあなたはその研究テーマを選んだのか(個人的な理由があるはずですよね)
(3) そのテーマについて、これまでどんなものを読んだり調べたりしたことがあるか(これが「先行研究の吟味」という作業です)
(4) それらのものを読んだり聴いたりしてきて、「なんか、違う・・・」とか「意味わかんない」とか「もっと知りたい」思ったことがあるはずです(他人の書いたものを読んで、「まったくその通りだ!私も前からそう思っていたのだよ」と思ったときには、そのことについて研究しようという気にはなりません)。
(5) 他の人の話を読んだり聴いたりして感じたこの「なんか足りない」「どこか違う」という感覚を時間をかけてていねいに観察してみてください。そこからオリジナルな研究が始まります。


これにもとづくなら、まあ1と2は何とかクリアしていたと思う。が、先行研究の吟味はやってないな。カイヨワだとかホイジンガだとかの本は一応読んだし、遊びの社会学を研究している人の本も読んだが、それはとても『吟味』とはいえないレベルだった。


であるからして「なんか違う」とか「意味わかんない」、「もっと知りたい」といういわゆる問題意識を持つことがなかった。


そう私の卒論に決定的に欠けていて、それこそが致命的な欠陥だったのは、自分の問題意識がなかったことである。あ〜はずかしいなあ、今になってそんなことを思い知らされるのは。


要するに私の卒論とは、他人の書いたものを読んで「まったくその通りだ!私も前からそう思っていたのだよ」と納得したことの抜き書き集に過ぎない。よくぞ、そんなレポート以下の内容で通してくれたものである。もちろん「可」だったけれど。


そのときの教授の心境を慮るに「こいつは、あと一年留年させても何の望みもない。だって、すでに一年留年しているんだからね。であれば、こんなバカでも拾ってくれる会社があるようなので、さっさと卒業させてしまえ」みたいな親心があったものと推察する。


もし、これを読んでいる人の中に卒論を書かなければならない人がいるなら、ぜひとも内田先生のブログを読まれよ。卒論の何たるかが、とてもわかりやすく説明されている。


あぁ、それにしても未だに大学時代の悪夢に悩まされることがある。明日が試験なのに何の勉強もしてないとか、試験の日に寝坊して受けられなかったとか。これって実際にあったことではあるのだけれど、自分の中では相当なトラウマとして残っているようだ。






昨日のI/O

In:
経営学入門』
ザ・サーチ
Out:
R社・コミュニケーション調査企画書
A社・社長インタビュー原稿


昨日の稽古:

・ジョギング
・腹筋、カール
・砂袋