空手は生涯スポーツになるか


「武道には知と創造の喜びがある」


東大大学院教授・松原隆一郎氏のことば。武道こそ生涯スポーツになる、というのが松原氏の主張だ。同氏は33歳から大道塾に入門し、60歳のいま、その師範代を務めている。さらに柔道場やキックボクシングジムにも毎週通っているらしい(日経新聞3月6日)。


すごい人だ。


その主張はといえば、
・人が本能的に抱える暴力衝動を武道は適度に発散させる
・武道のルールと礼法のもとで暴力を発散させるのがよい
・武道をやれば、どこまでやれば致命傷となるかを体得できる
・護身術として逃げる術が身につく


だから子どもが武道をやる効果が大きいと。いずれも、至極最もでその通りだと思う。


さらに武道をもっと身近に親しめるものとするために
・老若男女が興味を持てるよう練習方法を工夫する
・武道もサービス業だという意識をもつ
 →その分手間をかけるのだから必要な講習料を取る
・実力に合わせてきめ細かな指導体制をとる


もしかしたら、これが武道本来の姿なのかもしれない。本当の武道は、純粋に人殺しだけを目的とした殺伐とした技の体系だという解釈もある。たとえば空手でも武道的になればなるほど急所を的確に狙うようになるとか、柔道でも武道的な技はできる限り相手に受け身を採らせず、しかも関節をねらい必ず相手のどこかを痛めつけるようにするとかいった話だ。


こういういい方をすると実もふたもなくなってしまうけれど、技術も見栄えも関係なく、いかに敵を無力化するか(究極的には死に至らしめるか)が、武道の本質。そんな一文をどこかで読んだ記憶がある。


しかし、もしかしたら、そうではないのかもしれないなと思うようにもなりつつあった。キッカケは、内田樹氏の次の言葉。

「敵を作らない」ということは武道の基本である。
「天下無敵」とは、邪魔する相手をぜんぶ殲滅したので、天下に敵がないという意味ではない。
敵に出会わなければそもそも敵はいない。当然、無敵である。
敵とであっても、それを「敵味方」というスキームでとらえなければ、敵は概念としては存在しない。
ごく論理的なことを言っているのである。

http://blog.tatsuru.com/archives/001544


相手を敵としてとらえるのではなく、気を合わす相手と考える合気道についての説明だ。この一文とであって改めて考えたのが、そもそも武道がなぜ生まれたのかという根源的な問い。それは相手を倒すためではなく、自分が生き延びるためだったのではないか。であるなら武道の本質的なベクトルは、死へではなく生へ向かっているはずだ。


だから、スポーツという表現には少し違和感を感じるが、武道は生涯続けることのできるものだと思う。さらにいうなら生涯続けることで、人生が豊かになるようなものではないのか。たとえば中国では、それがどこまで武道的であるかはおくとしても、早朝の公園などで老人たちが気持ちよさそうに太極拳をやっている姿を見かける。


などと頭では理解できても、現実問題としてはなかなかそんなふうにいかない。実際に道場で組手稽古をする場合には、速さや強さがないと一方的にボコボコにされてチョンだ。若くて大きくて、経験がある、なんて人の方が圧倒的に有利でもある。そんな中で、まず恐がらないようになりたいと思い、さらにもっとうまくとか、強くなどと望むと、つい年齢と(早い話が体力の衰えと)戦わなければと思ってしまう。


そこで筋トレをやったり、カーツトレーニングに挑戦したり。それはいいのだけれど、また膝を痛めてしまったりして、ちょっと意気消沈気味だ。もしかしたら体に無理が効かない年齢に差しかかっているのだろうか。ここで、どんな方向性をめざしていけばいいのか。


どうすれば空手と生涯付き合っていけるのか。自分にとっての大きなテーマだ。




昨日のI/O

In:
『営業の聞く技術SPIN』
Out:
リフォーム会社セミナー用原稿
うどん店開業セミナー企画書


昨日の稽古:富雄中学校体育館

 ・基本稽古
 ・ミット稽古(回し蹴りの受け・連続蹴り)
 ・約束組手(回し蹴りの受け)
 ・自由組手