常識感覚が狂っていませんか


洋画家・和田義彦氏の盗作問題
社会保険庁の年金不正免除問題
神戸製鋼所のデータ改ざん問題


誰が見ても盗作にしか見えない絵を描いておきながら、絵に込めた思想性が違うと言い張る。


役所が自分たちの成績をよく見せかけるために、不正行為を働く。明らかに不正であるにもかかわらず、それも選択肢の一つだったと居直る。


日本トップクラスの企業が、自社に都合の悪いデータを誤魔化し、あるいはもみ消してしまう。


誰が、どう見てもおかしい。にも関わらず当事者たちは、なんだかんだと理屈をこねては、自分たちの正当性を主張する。開き直る。そんなんでいいんだろうか。なんでもありの社会なんだろうか、日本は。


前回のエントリー『非常識の時代』では、常識に惑わされてはいけないと書いたのだが、常識とは少しニュアンスが異なるのだが、常識的な感覚をまったくないがしろにしてもいけないと思う。
http://d.hatena.ne.jp/atutake/20060531/


彼らは、本当に自分が悪いことをしたと思っていないのだろうか。それとも悪いことをしたとは思っていても、それを認めたらダメだとか、認めさえしなければ何とかなる、とでも思っているのだろうか。


もし悪いことをしたなどとはまったく思っていないとしたら、ことは重大だ。普通の感覚でたいていの人が「それはアカンやろ」と思うことをやって、まったく平気な人が出てきていること。これが行き着く先は、人を殺したってええやんか、である。そう考える人が、もし増えつつあるのだとすれば、これは種としての人の危機である。


もしかしたら彼らには人が見えていないのかもしれない。外国の画家の絵を盗作したとしても、自分の身の回りにいる誰かに直接迷惑がかかるわけではない。年金を不正受給したとしても、ばい煙データをごまかしたとしても。それで困る人、被害を受ける人が、目の前にいるわけではない・・・。


この人たちはものすごく近視眼的な視野しか持っていないのかもしれない。自分の行為が、だれにどんな影響を与えるのかを想像することができないのかもしれない。悪いことをしたとしても開き直ってしまえばいいじゃないか、と考えるのも同じだ。


しかし、この世の中には人しかいない。人が何かをしたら、それは別の人に何らかの影響を必ず及ぼす。(もちろん世界には動物、植物もいるけれど、そこはちょっとおいて考えてください)。


自分が発した言葉は、誰かによって聞き取られる。その場合、自分が意図した通りに聞き取った相手が受けとってくれることはまずない。自分がとった行動は、誰かに何かの影響を与える。これまた行為に込めた自分の思いや考えが、そのまま相手に伝わることは滅多にない。


だから、人は一生懸命に伝えようとする。人とコミュニケーションをとろうとする。そのコミュニケーションのベースとなるのが、お互いが同じような感覚を持っていること、である。


赤ん坊を見れば誰だってかわいいと思う。傷ついた人を見れば、その痛みを感じることができる。幸せそうな人の笑顔を見れば、何となく自分も気分が明るくなる。誰かをだますのは、良心がとがめる。人を一方的に傷つけたり、殺めたりすることには自制が働く。明らかに悪いことをしたら、ごめんなさいと思う。


こうした感覚が麻痺している人が増えているのではないんだろうか。




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