嫌いを考える大切さ

自立というのは、ある意味では単純なことだ。
それは要するに「バカな他人にこき使われないですむ」ことである。
内田樹『子どもは判ってくれない』文春文庫、2006年、124ページ)


真理である。「自立」は「自由」と言い換えてもいい。この一文には職業観、人生観が凝縮されてもいる。ではバカな他人にこき使われない人生を送るためにはどうすればいいのか。それ相当の価値を自分で提供することだ。


生きることとはつまるところ交換だと思う。世の中(というのが大げさならば身近な誰かといっても構わないけれど)に対して何らかの価値を提供して(そのために自分の時間=命を使い)、その交換物として対価を受け取る。


もっともわかりやすい例が、会社で仕事をしているお父さんだろう。お父さんは会社に対して価値のある活動(営業だったり事務だったり企画だったり作業だったりといろいろありますね、究極的には提供物は時間だって考え方もあるけれど)を提供して、会社から対価として給料を受けとっている。ただし、このケースではバカな他人にこき使われるリスクもある。ただし、そうしたリスクを背負う対価としては退職金とかいろんな保障制度が用意されている(と個人事業者はやっかんでみる)。


じゃあ仕事をしていないお母さんはどうなるの? 誰にも価値を提供していないから対価ももらってないの? もちろん、そんなことはまったくありませんね。お母さんは家事をする(家族の面倒を見る)ことで、家族からの愛情を得るし、お父さんが稼いできたお金を使う権利も得る。働いているお母さんは、もっとたくさんの価値を提供することになるから、当然、より多くの対価を得ることになる。


ふ〜ん、じゃ子どもの間は何の価値も提供できないんだね? そんなこともない。子どもが提供している価値は、親に愛情の喜びとか生物としての根源的な意味(種の保存ですね)を教えてくれることだ。子どもの成長がどれだけ親にとってはうれしいことか。この言葉にならないほどの喜びを親に価値として提供してくれるから、親は対価として子育てに励む。動物がどうなのかはわからないが、少なくとも人にはそんなメカニズムが埋め込まれているように思う。


少し話がそれたが、たぶん価値を提供することによって、人は生きていくことができるのだと思う。あるいは価値を提供することが生きることだといってもいいのかもしれない。価値を提供すること、イコール仕事ともいえる。逆にいえば生きていく限り、家事も含めて何らかの仕事をやらなければならないわけだ。そこで問題となるのは、どんな仕事を選べばいいのかということ。


やりたい仕事を考えるためには、とりあえず次の二つのプロセスを踏んだ方がいい。いきなり何か一つに決め込んでしまうのも、一つのやり方ではあるけれどあまり戦略的じゃない。なぜなら時間という取り返しのつかないリソースを無駄にしてしまうリスクがあるからだ。


踏むべきプロセスとは、まず一つには世の中にはどんな仕事があるのかを知ることだ。これは本を読めば、大まかなところを掴むことができる。そのうえで、次のステップとしては、世の中にあるさまざまな仕事の中で自分が嫌な仕事は何かを考えること。ただし、ただ「これ、好きくな〜い」とか「何となくヤだから」といったレベルで思考を止めない方がいい。


その「好きくな〜い」理由は何なんだろうと、さらに一歩突っ込んでみる。すると、自分が何が嫌なのかがもう少しはっきりする。自分にとって嫌なことのエッセンスが見えてくる。そうするとたとえば肉体労働系はしんどいよなあとか、仕事に数学的なセンスが求められると無理っぽいなあとかがわかってくるだろう。


そして、もう一歩踏み込んでみると、もっといろいろ見えてくる。嫌いなものを細分化していくわけだ。すると肉体労働はしんどいけれど、でもマッサージ系ならできるかも、とか。数学系で経理とかは向いてないけれどコンピュータ使ってプログラムするならいけそうとか。いろんな可能性が見えてくることもある。


ところで嫌いを突き詰めていくプロセスでは、必ずその理由を書くことが大切だ。といってまとまった文章にまでする必要はない。理由を単語で書き出すだけでも構わない。ポイントは頭の中だけで考えてちゃダメだってこと。頭の中にあるもやもやしたものと、紙(パソコンのモニターでもいいけれど)に吐き出されたものとは次元が違う。外に出されることで自分の中の考えが客体化される。そこでまた見えてくるものがある。


そうやって嫌いなことを突き詰めていけば、逆説的だけれど自分は何が好きなのか、その方向性が見えてくる。そっちの方にあるのはチャレンジすべきことである。「自分にとって好き」方向の中ではいろいろ試行錯誤していい。もちろん好きなことが、そのまま自分のできることである場合もあるだろうし、トライしてみてちょっと自分には無理っぽいことがわかる場合もあるだろう。


しかし自分がやってきた好きなことの蓄積はムダにならない。好きなこと、イコール一生懸命やれることである。あるいは誰かにやり方を教えてもらって、それについて素直に学べることでもあるはずだ。この訓練経験は生きる。自分の財産となる。


そうやって嫌いなことをやってこなければ、自分の過去を全肯定できる。これなら過去をリセットしたいとは思わないだろう。まったくの個人的意見ではあるけれど、過去については全肯定(だって、どんな過去があったとしても、それがあるから今があるわけでしょう)、現在については中立的、未来についてはやや楽観的ぐらいのスタンスの取り方が生きていく上ではいいんじゃないだろうか。

はたから見て「好きなことをやっている」ように見える人間は、「好きなこと」がはっきりしている人間ではなく、「嫌いなこと」「できないこと」がはっきりしている人間なのである。
内田樹『子どもは判ってくれない』文春文庫、2006年、114ページ)


嫌なことをはっきりさせるって、とっても大事なのだ。




昨日のI/O

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ゴールドラット博士の論理思考プロセス/H・ウィリアム・デトマー』
冬のソナタ』第三話
→確かにチェリンがいうように、ユジンは髪を切った方がうんといい。
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