自分を何と呼ぶか


「あんたもええ歳して自分のこと、ぼく、なんていうてたらあかんで」


中学校時代からの友人に言われたのが17年前のこと。ええ歳とは30を意味する。孔子さん曰く30は而立の歳である。彼の感覚では「ぼく」は一人前の男が自分を指して言う言葉ではなかったのだろう。それが妙に説得力があった。


では、自分のことを何といえばいいのか。これがなかなか難しい。


日本語の一人称は、実にバラエティに富んでいる。ぼく(変形にぼかぁってのもある)、私(わたし、もしくはわたくし)、自分、わて(同じ系統に「あて」もある、これは京都の旦さんが使ったりしますな)、あちき(これはちと古いかも)、われ、わし、うち、オレ、おいら、おいどんに手前などという古風ないいかたもある。


これが英語なら一人称は常に「I(アイ)」、フランス語なら「Je」、イタリア語なら「io(だったはず)」、中国語なら「我(ウォゥかな)」。いつ、誰と、どんな状況で話す場合でも変わらない。ところが日本語ではどうか。TPOにより一人称は変化する。あるいは省略されるケースさえ多々ある。


考えてみるにオレでは相手によって失礼に当たるケースがあるだろう。「ぼく」はほぼどんな状況でも通じると思われるが、いわれてみればやや幼稚っぽさがないでもない。防衛大学に学んだことがあり、商社マンとして海外を渡り歩きもしてきた友人からすれば、一人称は「わたくし」しかないとのこと。そうかと思った。


それ以来、とりあえずオフィシャルな場では「わたくし」を使うようになった。言葉は意識を制御する。自分を「わたくし」と名乗ることで、向かい合っている相手に対する意識が、私の場合は覚せいするようだ。相手に対してつねに一歩距離をおくような感覚も生まれた。


こうした感覚は、インタビュアーという仕事を通じて強化される。向かい合っている相手をいつも客体化し、その人からいかに話を引き出すかがインタビュアーの仕事である。話を引き出すためには、自分が話に没頭してはならない。聞き役が話に夢中になってしまっては、相手のいうことを冷静に聞けなくなってしまう。


いつしか習い性となる。


とりあえず会話の場では、自分のことをしゃかりきに話すよりも、相手のいうことを聞く、聞き出すようなクセがついてしまった。冷めているといわれることもある。確かにそうかもしれない。


相手にしてみれば自分のことを「わたくし」と呼ぶ人間には、どことなく親しめないものを感じるはずだ。もし自分自身がそんな相手と向かい合ったなら、やはりそう受けとるだろう。自分をどう呼ぶかという問題には、そのときどきに面と向かい合っている相手との関係性をどう作り上げようかという意向が反映されているのである。


なんてことを、これまではあまり意識してこなかった。が、どうも自分を客観的に判断してみるに、人付き合いが悪い、もしくはいつも一歩引いていると思われがちで、その原因の一つは「わたくし」にあるのではないかと思った次第だ(ただ単にいけ好かない奴と思われているだけかもしれないが)。


とはいえ、今さらまた自分のことを「ぼく」というのには抵抗がある。ここしばらくの間は「わたくし」で通すしかないのだろう。これがもう少し老生の域に達してくれば「わし」なんて言い方が決して尊大には聞こえず、ぴたっとはまるようになるのかもしれない。


ただ「わたくし」では困る場合がある。寺子屋をやったり、空手で子どもたちをちょこっと教えたりするときのことだ。まさか自分のことを「先生は」などとは恐れ多いというか恥ずかしいというか、とてもいえない。どういえばいいかを迷った。


そこで寺子屋の子たちには「おっちゃんは」で通すことにしている。これ、慣れるまでは相当に抵抗があったけれども、今ではなかなかいい感じで使えている。が、空手の場で「おっちゃんは」はない。ので、この場合は極力一人称を省略して話すように心がけている。


日本語の使いこなしは、なかなかに奥が深いのだ。




昨日のI/O

In:
ゴールドラット博士の論理思考プロセス/H・ウィリアム・デトマー』
Out:

昨日の稽古:西部生涯スポーツセンター

・基本稽古(普段やらない手刀などの基本を)
・護身術(相手に後から掴まれた場合を想定して)

昨日のBGM

POULENC: PIANO WORKS/Pascal Roge
MOKO MOKO/Tkashi Matsunaga
→今日はピアノの気分でしたね

プーランク:ピアノ曲集

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