なぜ平常心を保てないのか


たとえば幅30センチの板の上を歩く


板が地面の上に置いてあれば、なんてことはない。目をつむっていても歩けるぐらいで、仮にその長さが10メートルぐらいあったとしても足を踏み外すことはまずないだろう。


しかし、これが地上5メートルぐらいの高さとなればどうか。とりあえず無風状態だけは確保されているとしよう。いくら無風とはいえ、下をみれば恐い。足がすくんでしまうのではないだろうか。板そのものは何も変わっていない。変わってしまったのは、それを渡る人間の心だ。


ここで「板は同じじゃやないか。だったら地面の上でも、高さが5メートルの空中でも板を渡る行為そのものはまったく同じ。何も恐がることはない。大丈夫、必ず渡れる」と思い込むことができるかどうか。これが平常心である。


逆に考えれば、なぜ平常心を保つことができないのか。5メートルの高さから落ちればどうなるか、と想像してしまうからだ。この想像力こそは人が動物から違った次元の生き物になれた原動力であり、同時に人の最大の弱みでもある。板は板、どこにあっても同じ。その幅が30センチもあれば、楽勝で渡れるといいきれないのは、板のおかれる状況によって働く想像力が違ってくるからだろう。


そして、これとはまったく矛盾するようなこともある。たとえば高いところから飛び降りる場合を考えてみる。仮に高さが1メートルぐらいなら、たいてい何の苦もなく飛ぶことができるだろう。なぜ恐がったりしないかといえば、そこから飛び降りたらどうなるかを想像することができるからだ。


ならば、これが暗闇の中ならどうか。


高さは50センチしかないという条件がついていたとしよう。普通に考えれば50センチの高さからは「飛び降りる」などとたいそうな表現は使わない。ちょっと飛ぶ、ぐらいの感覚でしかない。ところが、まったくの暗闇の中でいざ跳んでみるといわれれば、これは恐い。というか飛べないだろう。


ということは先を想像できないことが、行動をためらう要因になることもあるということになる。人とは何ともやっかいな存在なのだ。


想像力が働きすぎれば、ごく普通の行動さえできなくなり、逆に想像力をまったく働かせることのできない状況に追いやられると、やはり当たり前のことができなくなってしまう。おそらく平常心を保つためには、この想像力をどう自分でコントロールできるかが一つのカギになるのだろう。


これを空手に応用してみれば、もっともわかりやすいのが自由組手になる。相手が黒帯の先輩の場合、想像力が働きすぎると勝手に自分がやられてしまうシーンばかりを思い浮かべることになる。そうなると体はぎこちない動きしかできない。逆に何をされるかまったくわからない、つまり想像力が働かない状況に追い込まれると、やはり金縛り状態である。こちらは何もできない。


だから、どうしたらいいんだ? は簡単にはわかりません。それがわかれば、誰も苦労はしないわけだから。ただ一つ思うのは、たとえば板を渡る例に戻るなら、地上で板渡りの稽古を積んで、ほんとに目をつむっていても渡れるぐらいの自信を持てたときには、それが高さ5メートルの空中にあっても平気(完全にとまではいかないにせよ)で渡れるんじゃないだろうか。


あるいは暗闇の中でも50センチぐらいの高さから飛び降りる練習を積めば、恐怖心は薄らぐのではないだろうか。となると、ものすごくありきたりな結論にしかならないのだけれど、やはり普段の稽古を地道に重ねるしかないということだ。


それともう一つ考えられるのは、心を鍛える稽古はいつでもできるってことじゃないだろうか。常住坐臥といえばカッコよすぎるが、どんなときでも自分の想像力を自由にコントロールできるようにする。それにより感情のままに流されることを防ぐ。これを心がけていれば、平常心を養う手だてにはなりそうだ。まさに「武道とはよく生きること」なのである。

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