そのひと言、相手のためになる?


「そんなん、当たり前やろ」


これ、子どもとの会話での、特に何か質問を受けた時の、一番の禁句じゃないかと思うようになった。当たり前なのは自分が大人だからであって、もともと子どもと大人では知識の量が違う。大人にとっては知っていて当然のことでも、子どもにとっては「?」なことがたくさんある。


だから、いろんなことをいちいち尋ねてくる。そして人の知的活動の中で一番大切なのが「?」である。「なんだろう?」「どうなってるんだろう?」「なんでだろう?」とこうした疑問こそが脳みそを動かす原動力になる。


そして「あれ?」っと思った時の子どもは、ワクワクしているものだ。不思議なもの、疑問に思うものと出会った時って、脳が活性化されている。これは何かを学ぶのに、もっともよい脳の有り様だと思う。ところがせっかく子どもがそうした脳活性化状態にあるにもかかわらず、大人が「何をしょうもないこと聞いてんねん」とでも返せばどうなるか。


ふくらみかけた好奇心はしぼみ、活性化していた頭の中は水を浴びせられたように冷えてしまう。そこから先は、大人がいくら懇切丁寧に説明しても聞いた内容を子どもはスルーする。こうした子どもの心のメカニズムを知っておくことは、子どもと接する時にとても重要なポイントだ。


そこで心がけるべきは、たぶん下げることと上げること。


何を上げ下げするかといえば視線である。つまり、まずは子どもと同じレベルまで視線を下げる。できれば物理的にも背をかがめて子どもと同じ高さになってやるのがよいと思う。上から見下ろす姿勢は、意図しなくともお互いに何らかの心理的影響をもたらす。子どもからすれば見上げて話すことになるのだから、これも気持ちに影響を与えるだろう。


そして上げるとは、幽体離脱である。世阿弥に習っていうなら離見の見、つまり相手(子ども)と対面している自分を、もう一人の自分が上からみるわけだ。この俯瞰的な視点により、子どもがいまどんな状態になっているかを冷静に諮ることができる。


もちろん簡単なことではない。相手がわが子の場合は、愛憎含めていろんな感情が入り込む分だけ難しいとも思う。しかし、子どもと接する時には、やはりこの「視線の上げ下げ」を意識すべきだと思う。そうじゃないといくら相手のためによかれと思って話しても、それがまったく伝わらなくなってしまう。


何かを伝えるために出された言葉が、きちんと相手に受け止められないのは、とても悲しいことだ。言葉は伝わってこそ、意味が生じる。


そう考えれば「視線の上げ下げ」は、何も相手が子どものときだけに限らず、およそあらゆるコミュニケーションの時に求められることなのかもしれない。



昨日のI/O

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『IDEA HACKS!/原尻淳一・小山龍介」
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