空手のための読書・パート7


ようやく最後です。


内田先生との出会いは、最初はインタビューを希望する相手としてであった。そこからいろいろと調べていくうちに、この人はおもしろい、この人の本はすごいと発展していったのだが、そのテーマはあくまでも構造主義をベースとしたものだった。合気道をされていることはわかっていたが、それが27年間も続くものだとか、高段者であるとはまったく知らなかった。


が、ある著書を読んでいると、甲野善紀先生の名前が出てくるではないか。こんなところでつながったか、と思い、著作リストを眺め直してみるに『私の身体は頭がいい』があった。しかもこの著作にはサブタイトルがついていて「非中枢的身体論」とある。


この非中枢的身体論こそは、甲野先生の「体をバラバラに使う」ことの極意である。たとえば武道の稽古の目的の一つは、非日常的な身体の使い方をマスターすることである。これが何を意味するかといえば、相手に予測されない体の動き方をすることだ。


どういうことか。


普通、人は何かの動作をしようとする。この「しようとする」という表現自体が象徴的なのだが、まず「意志」ありきなのである。その意志が体全体に伝わり、体のどこかが起点となって動いていく。たとえば右の逆突きを出すなら、右足で床を蹴ることが起点となるはずだ。これにより力は体全体の動きを通して増幅されていき、最終的には突きの頂点に乗っていくのだけれど、その過程で実は武道的には決定的な欠陥を生じてしまう。それは体全体が「シンクロ」してしまうことである。目は狙う先を見つめ、肩が予備動作として動く。つまり、相手に見えてしまう。


普通の体の使い方をしている限り、どうしてもこうなる。そこでフェイントをいれたり、わかっていても避けられないぐらいに動きを速くしたり、あるいは少々受けられても構うもんかいとばかりに力任せで突き込んだりするわけだ。これがある種、力学的に体を制御し動かす場合には、どうしても避けられないプロセスになる。


スポーツとしては、これでいいのだと思う。なぜなら、プロセスが決まっているということはみんなが同じということだ。あとは個人の資質や努力次第で、たとえば動きの速さや力の強さをどれだけ頑張って身につけるかを「競え」ばいいわけだだから。みんなが同じルールに従って努力し、その成果で順番を付けるのがスポーツ競技の原則である。


ところが武術は違う。武術の本質は競い合うことではない。唯一にしてもっとも大切な原理は「無事に生き延びること」である。そのためには、自分の動きを相手に悟られなければ、それに越したことはないわけだ。たとえば薩摩示現流には二の太刀はないという。太刀を使うなら(そういう状況になってしまったときには)必ず一撃で相手を倒す。これが武術の真髄なのだと思う。


大切なのは、いざ「攻める」となった場合には、相手に動きを読まれないことに尽きる。読まれない、イコール予測できないこと。つまり日常的な体の使い方をしないこととつながるだろう。すなわち体をバラバラに動かすことであり、非中枢的な体の動きをすることである。


そのために先人が編み出した稽古のやり方が、型なのだ。たぶん。だから空手の型には「あり得ない」動きが組み込まれている。それはおそらく(このあたりは型のことも詳しく知らない自分が断定的にいうことは憚られるのだが)非日常的な体の使い方を、自分の体に練り込むことが目的の一つだと思う。だから空手のエッセンスが型には盛り込まれているのだろう。


さらには『私の身体は頭がいい』には武道稽古での型稽古の重要性が解き明かされている。

型稽古というのは、取り受けと業の種類を決めておいて、その業を掛け合って、相互に術技と身体を練り合うという稽古方法のことである。幕末まで日本の武道の技法体系はこのほとんど型稽古だけで成立してきた。もちろん型稽古には競技も試合もありえない。「受け」を取る上級者の導きに随って術技と身体を練ることが目的であるから、そもそも強弱勝敗を論じるということもない。
内田樹私の身体は頭がいい新曜社、2005年、78ページ)


これである。この型稽古は空手の場合、純然とした「型」と「約束組み手」を指すのだと思う。ここでいう約束組み手とは、伝統派の稽古でやられてきたものであり、フルコン系の受け返し系の稽古とは目指すところが少し違うのだろう。


型稽古とは、その名の通り手順が決まっている。だから本来は、お互いが全力でやるべき稽古である。たぶん本来の約束組み手もそうした稽古であるはずだ。そしてこの場合のお互いとは、必ず片方が上級者だったのではないか。だから全力を出していても比較的安全に稽古することができる。こうした稽古体系に従いながら、深い意味が隠された型の意味を習熟段階に応じて学んでいく。これが古流空手の学び方だったのかもしれない。


こうした気づきまでは何とか得ることができた。武術とは、誠に奥が深いものだと思う。誰も彼もが極められるようなものではないのだろう。だから極めることを目的とするのではなく、その奥へと一歩でも進んでいければいいのではないだろうか。それが武術の本質である「生き延びること」ひいては「よりよく生きること」につながるのだと思う。



昨日のI/O

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企業価値評価』
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IR優秀企業ホームページ分析レポート

昨日の稽古:

私の身体は頭がいい―非中枢的身体論

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身体を通して時代を読む (木星叢書)

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