正しい翻訳のあり方とは


難しいことを易しく、易しいことを深く、深いことを面白く


井上ひさし氏のモットーである。この文章をよく読むと、これ自体がすでにモットーの具体例となっている。「難しいこと=このように文章を書くこと」を「易しく=意味は誰にでもわかる文章で」語っており、さらには「深く=その内容を突き詰めれば、奥は限りなく深いわけで」、そうした深い内容を「面白く=純粋に面白いかどうかはちょっと判断留保ではあるけれど」語っているでしょう。


人に読んでいただく文章を書くなら、頭のどこかにいつも止めておきたいチェック基準の一つではある。


本を読んでいると時々「オレって本当にバカになってしまったんじゃないんだろうか」と悩むような難解な作品にぶつかることはないだろうか。たとえば学術書である。まあ学術書が小難しいのは、ある意味仕方がない。まず意味のわからない専門的用語があちらこちらに散りばめられているケースが多々あって、これは書き手にとっては、そんなの一々説明してられないというか、専門用語をわざわざ普通の言葉に置き換えるなんて手間はとんでもないことだからだ。学術書というのはそんなもんである。専門用語もわからんくせに手を出すなといった世界である。


が、ビジネス関係の本でも翻訳物の新刊などは「理解に苦しむ」表現が多々見られるケースがある。この場合は、明らかに翻訳のレベルが低いことが多い。要するに翻訳者が内容をわかっていないまま英語を日本語に移し替えただけ、みたいな文章になっているケースだ。本当ならその分野の専門家に訳させると読みやすくはなるのだろうが、翻訳のプロじゃないから時間がかかる。


ところがビジネス書の場合はタイムリー性が重要である。だから専門知識はないけれども、単純な翻訳は得意といった人に仕事が回されることが多いのだろう。本当なら上がってきた翻訳を、その分野のプロが監修するといいのだが、そんな面倒なことをしていては、時間がかかるしお金もかかってしまう。少々読みにくくても「これがいま、アメリカのビジネスシーンでは最先端だ」みたいなキャッチフレーズがついていれば、そこそこには売れるのだから、あえて中身に凝ることもない、なんてポリシーだろうか。


ときに翻訳については、内田樹先生がすばらしいコツを伝授してくださっている。

翻訳においてたいせつなのは「クライアントが読むことを欲しているドキュメント」を差し出すことであり、それに尽きるのである。「プロの条件」とは「自分に厳しく」ではなく、「クライアントに優しく」である。
内田樹「態度が悪くてすみません」角川書店、2006年、144ページ)


すなわちまずは「意味がわかる日本語」を書くことが大切であり、そのためには「自分には意味のわからない箇所」はあえて「見落とす」方がよいと。付け加えて「訳し落とし」というのは「訳し違い」に比べると、はるかに実害が少ないとも書かれておられる。けだし慧眼である。


そこで内田流翻訳についての第一の鉄則「クライアントに優しく」に加えて、「わからないところは静かにスルー」が第二の鉄則になる。なるほど。もちろん「わらないところ」だらけでは、いくらクライアントに優しい文章となっていても、そもそも価値がない。まあ、全体の7割方ぐらいをきちんと訳していれば、残り3割程度については、訳者が理解できない部分を訳本読者がわかるはずがない、という態度は正解なのだろう。


そもそもパレートの法則に従うなら、どんなテキストも根本的に大切なことをいっているのは、全体の20%ぐらいであろう。であれば残りの80%については正確さを求めてわかりにくい文章とするよりも、読んでわかりやすい、さらには読んで面白いを心がけるのが翻訳者のサービスなのだ。


実はマーケティングの最新理論、ケースについてのレポートを翻訳するなんて仕事をコピーライターの駆け出し時代にやってたことがある。大学時代の友人から回してもらったバイト仕事である。大学時代は英語がまあできるんじゃないかと、思われていた節があって(その理由は、英語の教科書を読む時に英英辞典しか使っていなくて、それもほとんど使わなかったみたいな、わかったようなわからないような理由らしいけれど)、コピーライターならわかりやすい文章にしてくれるんじゃないかとも期待されたようだ。


ところが英語の流れは何となくわかるにしても、マーケティングのことをまだ何にも知らない時代のことである。当然、訳文は訳した自分でさえ何が言いたいのかさっぱりわからない上がりとなってしまい、結果的には仕事を回してくれた友だちの面子を著しく落とすだけに終わってしまった。


その何年か後に今度は、日本一の広告代理店からの孫請け仕事として、TiVoなる製品についてネット上で手に入る限りのレポート、記事、ユーザーコメントなどを直訳ではなく、概訳レポートにして毎月欲しいとのオファーを受けた。これを一年半ぐらい続けたのだが、こちらはそこそこ面白く読んでもらえたんじゃないか。


毎月少なくとも30本ぐらい、一つのテーマに絞っていろんなテキストを読んでいくと、専門用語もわかるし、そのテーマについての大まかな英語の地図みたいなものが頭の中にできる。


そうなればしめたものだ。あとは英語なんだから、基本的にはどのテキストも「おれは、これを言いたいんだ」というポイントだけは、わりとはっきりとわかる文章が多い。そこを外さず、あとはいかに面白く仕上げるかだけに注意してレポートを仕上げた。


これで、ある。『難しいことを易しく、易しいことを深く、深いことを面白く』は文章の理想であるのだけれど、まずは「難しいこと易しく」が第一の関門なのだ。ここを突破できなければ、そもそも読んでさえもらえない。翻訳に限らず、文章修業の道は奥が深いのだ。だから、いつまで経っても飽きない(というか正確には諦められないといった方がいいのかもしれないのだけれど)。



昨日のI/O

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昨日の稽古:西部生涯スポーツセンター・軽運動室

・基本稽古
・ミットを使った手刀、裏拳の稽古
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