格差って何さ


相対的貧困率13.5%


日本は今や、世界第二位の格差社会となっているらしい。相対的貧困率とは、ものすごく簡単にいうと、全国民の中の貧困層の割合を示すモノさしである。では貧困層とはどうやって測るのか。その仕組はこうだ。つまり国民を所得の高い人から順番に並べていって、ちょうど真ん中の人を基準とする。その人の所得の半分以下しか稼げていない人たちを貧困層とする。
http://www.nikkeibp.co.jp/sj/column/o/44/03.html


だから真ん中の人の所得が500万円だとすれば、250万円以下の人を貧困層と呼ぶ。その貧困層がどれぐらいいるかを表わすのが相対的貧困率というわけだ。これがOECD諸国の中では日本がアメリカに次いで2番目となった。一億総中流社会などというキャッチフレーズは、もはや過去のものと考えなければならない。


ただし、これはあくまでも『相対的』貧困率である。仮に日本の中間値が500万で所得250万以下の人の割合が13.5%だったとしても、世界には年収250万以下で暮らしている人がたくさんいる。その絶対数はおそらく日本の『相対的』貧困層の比じゃないぐらい多いはずだ。その人たちに比べれば(というところが相対的の意味だけれど)たとえ貧困層とはいえ、それは日本の中でのこと。世界的に見れば日本は豊かな暮らしぶりとなるはずだ。


「だから、いいじゃないか。こんなに社会的インフラの整っている国に暮らせていて、子どもはみんな学校へ行くことができて、お金がなければ給食代だって払わなくていいんだぞ」というのが、どうも格差社会・日本の富裕層の意見らしい。そして、こうした考え方を持っている人間が日本を格差社会に向かって動かしている元凶じゃないか。そんな問題提起をしているのが『SIGHT』秋号である。


なぜ、日本が格差社会になってしまったのか。それは表向きは一億総中流といいながらも日本が、持てる者と持たざる者に分化し始めてきていて、持てる者達がその既得権益を固定化しようとしているからだ。その象徴が二世議員ではないかと、同誌の中で佐高信は指摘する。


地方の貧家で育った佐高は慶応義塾に入る。そこで彼は小泉純一郎小沢一郎らと同級生になり、その境遇の違いを思い知らされたという。つまり慶應の同級生には渋谷駅から歩いていける豪邸に住み、テニスコートがあるような暮らしぶりをしている奴も多くいたと。小泉氏や小沢氏も、彼らと基本的には同類だと佐高氏はいう。では、そうした境遇で育ってきた人間はどんな大人になるのか。


特に嫌みな人間になるわけではない。傲慢ということとも違う。基本的には知性が高く人としての優しさももっているのだと思う。が、彼らには等しく決定的に欠けているポイントがある、と佐高は指摘する。それが『格差の存在についての認識』である。格差によっていい思いをしている(それぐらいの潜在意識はあるだろう)人間と、格差によって虐げられている人間とでは、その境遇の違いを産み出している原因に対する認識が違うのは当たり前のことだ。


格差によっていい思いをしている人間たちにとっては、格差の継続的な存在こそが望ましい。だから彼らは自然な流れとして結束しようとする。その結果インナーサークルが生まれる。サークル内では外の人間には決して伝わらない情報が流通していて、それがさらなる格差を産み出す。当然、彼らは格差を継続的に固定化し、インナーサークルを強固にしようと考える。そうした中で起こってきた問題の一つが教育における機会不平等、いわゆる『ゆとり教育』だと。


ゆとり教育とは普通の子供の教育機会を減らし、エリート教育のための予算が人手を浮かすのが目的」。そんな主旨の発言を三浦朱門・元教育課程審議会会長が語ったらしい(『SIGHT』秋号・56ページ)。ここまでいうとちょっと眉唾物で、そもそも富裕層が子どもを公立校へ通わせることはないだろう。彼らは幼い頃から質の高い教育を子どもに授け、またある程度の財力がないと入ることのできない学校へ子どもを通わせているはずだ。


ただ問題の本質の一つが教育にあることは間違いない。教育の質を高めて、富裕層以外の階層から優秀な人間がぼんぼん出てきては困る、ぐらいの認識はあったかもしれない。あるいはそこまでひどくなくても、自分たちの子弟はエリート私立で学ばせるから公立教育どうなろうと、ほとんど関心がない、といったところが教育問題担当者たちの正直な意見かもしれない。文部科学省の官僚たちもおそらく、自分の子どもを地域の公立校に通わせたりはしないだろうから、公立校教育について深刻な問題意識を持っていたとは思えない。


しかし、少なくとも小学校の間できちんと学ぶことの大切さ、面白さを身につけることができなかった子どもは、その将来に大きなハンディキャップを背負うことになる。そのハンディに気づくのが、おそらくは中学校の2年生ぐらいからではないか。そこからハンディを取り戻すのは相当にしんどい。そこで諦めてしまった子どもたちがどうなるか。将来に対する希望を簡単になくしてしまうのではないだろうか。


かくして格差は再生産される。しかし、これは本質的には富裕層にとっても好ましい状態では決してない。なぜなら、そうした状況が続けば、絶望のあまりに刹那的、暴力的な行為に走る人間が増えるだろう。これは治安の悪化につながり、社会的なコストとなって跳ね返ってくる。一方で日本のこれまでの繁栄を支えてきた上質な労働力が失われるわけで、そうなるとそもそも日本全体が貧困国に成り下がっていく恐れが強い。


おめでたい理想論をいいたいわけではないが、日本が、そこに暮らす多くの人にとって暮らしやすい国であるためには、やはり格差があってはマズいのだ。そして格差をなくすカギの一つは教育にあると強く思う。


では、教育をどうすればいいのか。直観的には、少なくとも「そんなの学校に任せておけばいい」と考えては絶対にダメだ。いまの子どもたち30数人を相手に、先生はたった一人である。これではいくら先生に情熱と能力があったとしても、全員をくまなくカバーすることは不可能だろう。だから、まず親をはじめとする子どもの回りにいる大人が、自分の子どもはもちろん、その友だちぐらいまではできるだけ目配りをしてあげることが一つ。それと、学校以外で塾とも異なる教育(というか躾けというか)の場がいるのだと思う。そうした場のアイデアの一つとしては、以前にも書いた団塊リタイア層による寺子屋みたいなものが、あちらこちらにできれば理想的だと思うのだが、どうだろうか。



昨日のI/O

In:
『SIGHT』秋号
『落ちこぼれタケダを変える/武田國男
Out:
自社サイト・新サービス告知用原稿


昨日の稽古:富雄中学校体育館

・サーキットトレーニン
・基本稽古
・突きに対する受けの稽古
・突きだけの組み手稽古
・顔面に対する受けの稽古

昨日のBGM

SIGHT (サイト) 2006年 10月号 [雑誌]

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