なぜ冬ソナを見ずにはいられないのか


周回遅れで二回目の冬ソナ。


ケーブルテレビで再々(もしかしたら、もっと再々か)放送をやっているので、ついつい見てしまう。冬ソナ初体験は、半年ほど前のこと。ちょうどワンクール前に同じCATV局でやっていたのを、途中の回でちらっと見てしまい(あの真っ赤な壁の前で、ミニョンが「ぼくは、チュンサンなんだ」というシーンです)、何となく引き込まれてはまってしまった。


それからDVDを借りにツタヤに走り、最初からのストーリーを追い、テレビ放送をおいかけと、一通り最後まで見た。その再放送が先日から始まって、また見ているという次第。なんで、こんなに引き込まれるのだろう。


もちろんチェ・ジュウが素晴らしいことは大きな理由だ。いまの日本では滅多にお目にかかれなくなった透明な清純さに、心癒されるのは間違いない。だが、それだけではない。『冬ソナ』には、何かほかに特別人を引きつける魅力があるのだ。それは何か。


複雑な話ではある。自分の父親を捜しにきて、その父親と縁がありそうな女性を好きになり、交通事故で一度は死ぬ。ここが一つのポイントだろう。実際には死んではいないのだが、ユジンはじめ高校時代のチュンサンのまわりにいた人間にとっては、チュンサンは死んだ人間として記憶の中に封印される。


さらに話をややこしくするのが、あの母親だ。彼女は自分の息子を、実際には死んでいないのに、戸籍上(おそらくは彼女の心の中でも)一度殺してしまい、別人(ミニョンさんですね)として蘇らせる。彼女にとってチュンサンとは、愛すべき息子であり、同時に忘れたい、しかし忘れられないつらい想い出のシンボルでもある。そこには複雑きわまりない感情がないまぜになっている。だからチュンサンではなく、まっさらなミニョンを、純粋に愛情だけを注ぐことができる存在を彼女は創りだした。チュンサンは、母親に抹殺されるのである。


ミニョンとなって蘇ったチュンサンは、自分を探す旅に出る。
と考えてみると、つまり『冬ソナ』は、死者の復活劇なのではないだろうか。


みんなの記憶から葬り去られたチュンサンは、ミニョンとして復活し、やがては再びチュンサンとして完全に蘇る。自分を取り戻す。これは彼の母親にとっては、許しがたい状況である。チュンサンの復活は、彼女が封印してしまいたい想い出の復活でしかない。カン・ミヒのこの歪んだ感情が、ドラマの後半を引っ張っていく。


カン・ミヒが葬り去りたかったのは、チュンサンだけではない。チュンサンの本当の父親も、彼女が本当に愛した男性も、その男性を奪ってしまった女性(ユジンのお母さんですね)も、自分の不幸な想い出にまつわる人物すべてを彼女は葬ってしまいたかったのだ。と考えてくると『冬ソナ』は単純な恋物語とはまったく違った側面を見せる。


カン・ミヒの視点からみた『冬ソナ』である。なるほどね。


ドラマではユジンの邪魔をする女性としてチェリンが描かれているが、彼女などはかわいいものだ(実際に、すっごくかわいくてきれいだけれど)。このドラマの二つの強力な軸となっているのが、一つにはユジンの純粋さであり、その対極として描かれているのがカン・ミヒのおどろおどろしい情念である。こういうのを、もしかしたら『恨(ハン)』というのかもしれない。


そうすると、チュンサンあるいはミニョンの役回りが見えてくる。彼は運命にもてあそばれる悲劇の主人公などではなく、カン・ミヒの激情とユジンの純情の間で翻弄される浮き舟の様な存在なのだ。つまり、彼には自発的な意志などあまりなく、二人の女性の激しい気持ちのぶつかり合いの中で、ただただ漂う存在である。そのはかなさがいい。多くの女性は、このチュンサンのはかなさを本能的に見抜き、母性本能をいたく刺激されるのではないか(というのは、まったくもって勝手な推測に過ぎないけれど)。


そしてドラマはクライマックスへと進んでいく。


チュンサンのカン・ミヒに対する逆襲である。自分の妹かもしれないと思いながらもユジンに対する愛情をとめることができないチュンサン。その激情を駆り立てているのは、おそらくはカン・ミヒに対する復しゅうだ。彼ははじめて母親に逆らい、自分の意志で突っ走ろうとする。しかし、チュンサンはまたしても壁にぶち当たる。ここでおそらく彼は立ち上がれないほど傷ついてしまう。


さらにドラマは屈折する。ユジンとの血のつながりがないことがわかったにも関わらず、二人は結ばれない。二人が結ばれることを、カン・ミヒの恨は決して許さなかったのだ。この強烈な感情の檻から抜け出し、チュンサンが独立するために払った代償が視力である。彼は母親の恨から抜け出すために光を失わなければならなかったのだ。


かくして最後の最後で、チュンサンはふたたび光を得る。ユジンと結ばれることを暗示してドラマは終わる。なんというカタルシス。もっとはっきりハッピーエンドにせんかい、と思うのは私だけか。そこに不満は残るものの劇的なエンディングあることには変わりはない。涙あふれて当然の終局である。


なんと壮絶な物語であることか。だから私は、かくも『冬ソナ』に惹かれてしまうのだろう。とりあえず、こんなに込み入った感情物語を日本のドラマで見たことがなかったことだけは確かである。





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