大腰筋を意識する


心拍数180


以前、能楽を取材した時に聞いた話である。能を舞っているときのシテは、これぐらいの心拍数になっているという。しかし、舞台上の動きはあくまでも優雅にしなやかだ。このとき取材に応じてくれた方は、能を舞うとは実はコマを回すようなものなのだと教えてくれた。


その理屈は、コマが高速回転していからこそ、じっと動かないように見えるのと同じことだと。つまり能もそれを演じている人間は、全身全霊全力を使っている。だからこそ異常なまでの心拍数になる。それぐらいの負荷がかかっている。その内面の激しさがあって始めて、表面の動きが極めて滑らかになるのだ。「そうしたきつい訓練を若い頃からずっと続けているから能の関係者は長生きする人が多いのですよ」などと、その方はおっしゃっていた。


『疲れない体をつくる「和」の身体作法/安田登』を読んでいて、その取材の話を思い出した。この本によれば、能を伝えてきたのは武士だったという。能は武士の嗜みの一つであり、実は武士に求められる体作りにも役立っていた。能の体の動かし方には、いくつかの特長があるが、なかでもポイントとなるのが大腰筋の使い方にあるという。


大腰筋というのは人間の上半身と下半身をつなぐコアの筋肉である。背骨とそれにつながる骨盤を結んでいる筋肉でもある。これはとても長くて太い筋肉であり、人間の姿勢を作る上ではもっとも重要な筋肉だ。けれども、これを意識して鍛えることは難しい。その理由は、この筋肉が体の奥深くにあるために、たとえば上腕二頭筋・三頭筋や腹筋、あるいは大腿筋のように、これをやればその筋肉を鍛えることができるといったわかりやすいトレーニング法がないからだ。


とはいえ、この大腰筋は姿勢維持に関わる筋肉であり、引いては体の根本的な動かし方を支配する筋肉でもある。そして、これを鍛えるためには能の作法が良いということらしいのだ。だから、武士は能を学んだという。


では、その能の理論の中でも着目すべき点は何か。体の使い方、考え方についてそれぞれ一つずつ重要な教えがあるように思う。まず体の使い方については、とにかくクセを取ることが大切だという。それはたとえば骨盤を水平に保つことである。


人間の体は基本的に、左右不均等にできている。右利き、左利きといった利き手があること自体が、その象徴だ。これを自然に任せていると年を経るに従って偏りが強くなる。もちろん骨盤も偏る。これをまず徹底的に直すこと。能のお稽古は、ここから始まる。そしていかにも平面的な能装束にピタッとはまる体、面を作れる体になって初めて、本当の稽古が始まるのだ。


さらには稽古についての考え方である。稽古とは『古を稽(かんが)ふる』と訓じる。まずは古人から綿々と受け継がれてきたことを、徹底的に真似るのである。その過程で、自分が知らず知らずのうちに身に付けてしまっているクセを取ることができる。それが稽古の本当の意味だ。この過程で自分流の偏りは徹底的に矯正される。能をやる人の姿勢がいいのはこのためだ。


ともかく稽古とは、普段やったこともないような体の使い方を自分の体に覚え込ませることでもある。これをおそらくは「守破離」の守というのだろう。この守の期間だけで、どれぐらいの年数を要するものなのか。たとえば空手なら『立ち方三年、歩き方三年、握り方三年』などといった言葉ある(あったはず?)。おそらく、この言葉は能の守をマスターするのと同じことを意味しているのだろう。となるとざっと考えて最低十年はかかるということではないか。


そして稽古がきちんとできるようになる、つまり今度は自分が人に『古の教え』を伝えられる段階に進んで、今度は『初心忘るるべからず』となるのだ。これも世阿弥の教えだが、『初心』とは決して稽古ごとを始めた時の気持ち、心がけをさす言葉ではない。


そうではなく、稽古をするたびにいつも自分をまっさらな状態にリセットすることを求める言葉なのだ。つまりそれまでに自分がやってきたことは、いったん全部チャラにして、それにこだわらず新鮮な気持ちで稽古に当たれと。過去にこだわっていては、進歩はないのである。だからといって過去を無視せよ、というのではまったくない。


それまでの地道な稽古の積み重ねによって、クセのない体はできているのである。その上で、次は『破』の段階に踏み出すためには、つまり自分なりの方向性を見出すためには、事に当たるたびにいつも『初心』でなければならないということである。


なんと奥が深いことか。そして、能は武道に通じているというか、すべてはやはり武士の修練につながっているのだと驚きもし、自分がその末端の末端ではあるけれども、武道(とは呼べないレベルかもしれないけれど)に魅せられる理由が何となくわかってきた。


やはり武道は生きることに通じているのだと強く思う。



昨日のI/O

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『ポルタウォーキング』コピー原稿

昨日の稽古:富雄中学校体育館

・基本稽古
・約束組み手(蹴りに対する受け返し)
・組み手稽古(相手の攻めに対して、体を固く/少しずらすことで受ける稽古)

疲れない体をつくる「和」の身体作法―能に学ぶ深層筋エクササイズ

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