歴史は面白いのに


補習50回でオッケー


高校の履修漏れ問題は最終的に、いつも通りの玉虫色の解決策に落ち着いたようだ。とりあえず、まじめに履修してきた生徒たちに対する公平性の問題はスルーされたままである。


そこはとりあえずおいておく。


今回は公平性の問題ではなく、履修漏れが多かった歴史の学び方について少し。私は浪人したがために共通一次第一期生となってしまったので、五教科七科目世代である。要するに国公立大学を受けるためには共通一次試験がまず最初の難関としてあるわけで、この試験では英語、数学、国語に加えて社会と理科それぞれ二科目が課せられた。


いくら浪人とはいえ時間には限りがある。勉強科目の優先順位をどうつけていけばいいかを浪人生活のスタートにあたって考えた。英数国は二次試験でも必須なので、一生懸命にやらなければならない。おそらくは二次試験用の勉強がそのまま共通一次の勉強にもなる。これはオッケーである。


問題は社会と理科だ。


まず科目として何を選ぶか。とりあえず文系人間なので、できるだけややこしいことを考えずに済ませたい。となるとまず物理はダメである。というか高校でも物理は徹底的にダメであった。加えて地学もおぞましい。化学もモル記号がどうだとか、化学式で分子量がなんちゃら(なんという表現なんだ)といったことはあるが、とりあえず「すいへいりーべ、ぼくのふね、そーまがるしっぷすくら〜く」ぐらいはいえる。生物も覚えることが多そうだから、何とかなるだろう。


といったところで落ち着いた。残るは社会だ。当時は地理、歴史、倫理社会に政経とあったが、ここはあっさりと歴史二科目、つまり日本史、世界史を選んだ。暗記は得意、と自信を持っていたからだ。


が、時間に余裕のある浪人生の特権を活かして、歴史もちょいと本格的に勉強したろかい、とやってみるに、これが実に面白いことに気づく。歴史の何が面白いのか。


歴史のほとんどは、ヒューマンドラマであることがおもしろいのだ。記録の残っていない石器時代などはともかくとして、それ以降に起こるあらゆる歴史的事件、イベントのほとんどすべてには必ず、誰かの思惑が絡んでいる。


一つの国の中での権力争い、国と国との争い。みんな、そうだ。それは最終的に一人の人物の考えに行き着くケースもあれば、あるグループぐらいにとどまることもある(とはいえ、グループにはたいていの場合、リーダーがいるから、かなりの確率である人物に特定されることの方が多いが)。


つまり、何か事が起こるのは、誰かが「そうしたい、そうすべきだ」などと考えるからだ。たとえば大化の改新も、あるいは鎌倉幕府ができたのも、はたまた関ヶ原の合戦が起こった理由も、明治維新もみんなそう。誰かが何かを考えたから起こった。


もちろん一人の人間の考え方は、突然にして起こるわけではない(中にはそういう天変地異、突然変異的な例もあるが)。ある人間が、ある考え方を持つようになるのには、それなりの背景がある。これが歴史の大きな流れみたいなものだ。


片方でそうした大きな流れみたいなものを意識しながら、個々の事件などに関しては、特定の人物にフォーカスして歴史を読んでいくと、歴史の教科書だけでは飽き足らなくなる。そこで参考書に頼るのではなく、歴史の本、たとえば中央公論社が出していた『世界の歴史』『日本の歴史』シリーズとか、あるいは偉人伝の類いを読んでみる。実におもしろい。


なんで、こいつはこんな考え方をしたのだとびっくりすることもあれば、そんな環境の中にいれば、そう考えるのも当然だなと納得することもある。あるいは、こいつはとんでもない気違いみたいにいわれてきたが、彼の立場からすればそう考えるようになっても仕方がなかったかと同情するケースもある。合理的な判断で歴史が動いたケースもあれば、個人のおぞましい感情だけで引き起こされた事件があることもわかる。


とにもかくにも歴史には、数限りない人物ドラマが秘められている。このドラマは、たいていの小説よりおもしろい。


といったやり方で歴史を読むと、各時代ごとのおおまかな流れはだいたい掴むことができる。あとは必要に応じて、細かい年号を覚えたりすればいい(実は年号記憶が大の苦手で、しかも語呂合わせで覚えるのも邪道だと思い込んでいたので、未だに年号はだいたいでしかわからないのだけれど)。


時間はかかるかもしれないけれども、そうやって歴史を読むと自分なりの歴史観みたいなものができる。歴史教育の本当のポイントは、こうした歴史観を持たせることにあるんじゃないのだろうか。また、そんな歴史教育をやれば、歴史を選択する生徒がもっと増えると思うのだけれど。




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