神は細部に宿る


「映画は役者も被写体の一つ、コップと等価なんだと」
ーーー國村 準

映画はフレームの中に何一つ無駄がないんですよ。役者もコップも全部必要なもの。つまり被写体的に等価なんですよね。
週刊文春・2006.12.7、「阿川佐和子のこの人に会いたい」164ページ)


おお、そうであったか。ということは、映画も絵と同じく「読める」のだ。やっぱり! といきなり話を始めても、何が何やらかもしれない(と少し反省)。


絵を読む、分析することは、欧米では学校教育で普通に行われている。これは日本の学校での「絵の鑑賞」とは、まったく趣を異にする。鑑賞ではなくあくまでも分析するのである。

例えば、フィンセント・ファン・ゴッホの「星月夜」(1889年、ニューヨーク近代美術館)については、子供に黙ってじっくりと絵を観察させてから、教師は子供が絵を分析してさらに深く理解できるようにするために、次のような問いかけをします。
●絵には何か特徴がありますか
●なぜこのような色を使っているのですか
●時間は何時頃ですか
●町には何がありますか
●どんな風景が見えますか
●空はどのように見えますか
●時間はいつですか。昼間ですか? 夜ですか? 黄昏時ですか?
●天気はどんな様子ですか。雨ですか? 嵐ですか?
●絵は安心感を与えてくれますか。それとも恐ろしい感じがしますか
(「絵本で育てる情報分析力」三森ゆりか一声社、2002年、63〜64p)


作者がどこまで自覚的であったかどうかはともかくとして、絵はその細部に至るまで何らかの意図があって描かれているという見方が、こうした分析の大前提となっている。だから、まずはその意図を自分なりに読みとり、それをベースに次は自分なりの解釈を組み立てていく。これが絵の分析であり、さらにはそこから絵の批評へと発展してさせていく。


欧米流の絵画鑑賞法であり、絵画教育である。


繰り返すが、その前提となっているのは『表現されたものには必ず、表現者の意図が反映されている』ということだ。そして冒頭の國村準氏のコメントは、映画も同じだと言っているのである。


ここで國村氏が言及しているのは、ハリウッド映画であり、リドリー・スコット監督のことである。國村氏が初めて出演した映画『ブラックレイン』で、演技をして得た気づきだという。


もちろん、あらゆる映画が同じように作られているとまでいいきることはできないだろう。しかし、本来表現とは意図の塊であるはずだ。というか表現とはすなわち意図である。


だからこそ、細部をないがしろにしてはいけないのである。読み手は、細部までを読もうとするのだから。また細部にまで細心の注意をして創造された表現物は、完成度が高まる。なぜなら細部に至るまでのすべてが、特定の意図を表現するために乱れのないハーモニーを響かせるから。そのハーモニーの完成度の高さを人は、感じるようにできているのだ。


それは一次的には、そうした表現物に接した際の心地よさとして認識されるのだろう。しかし、心地よさの背景は分析可能であり、それを突き詰めていけば、たとえば映画のワンシーンで描写される役者の動きから置かれている小道具のデザインや色までが、すべて意味を持つ世界にまで行き着く。


などということを一々考えていては、とても映画をゆったりと楽しむことはできないのかもしれない。しかし、もしお気に入りの映画があるなら「なぜ、自分は、この映画に惹かれるのか」を考える手助けにはなるだろうし、その思考を通じて自分を知ることにもつながる。


結局何かを見て、聞いて、触れて得た中身を分析することは、自分を知ることと同義なのかもしれない。




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