頻度は質に転化するか


利用率71.9%


携帯電話の話。20〜40代では9割を超えているという(総務省資料→ http://www.soumu.go.jp/s-news/2006/060519_1.html)。確かに今ではケータイを持っていない人を見つける方が難しいぐらいだ。


電車に乗ったときに車両の中を見回すと、必ず一心不乱にケータイをいじっている人がいる。年齢でいえば車内ケータイ率の最も高いのが、おそらくは20代、なかでも女性の方が多いように思う。そして彼ら、彼女たちが何をしているかといえば、たいていがメールだ。


一体、どんなメッセージを誰とやりとりしているのか。気になるところではあるが、これはプライバシーに直結する話なのでおくとして、もう一つ気になる問題がある。


すなわち「ケータイ・メールコミュニケーションは、コミュニケーションの質をどう変えたのか(変えようとしているのか)」。


とりあえず今の20代(10代後半ぐらいからも含むと思う)のテキスト(メールのことですね)によるコミュニケーション頻度は、未だかつてなかったレベルにあるはずだ。たぶん10年ぐらい前の同じ世代のコミュニケーション頻度と比べれば、百倍かもしかしたら千倍ぐらいまでいくかもしれない。


それほどまでにテキストによるコミュニケーションを盛んに行っている世代のコミュニケーションの質はどうなのか。あるいはコミュニケーション感度はどうなのか。もう一つ突っ込むなら、彼らがメールで交わしているメッセージははたして、コミュニケーションとして成立しているのか。


そもそもコミュニケーションの原語はラテン語のcom(=共に)+munis(=義務を果たす、喜んでする)だ。そこから転じて(お互いに)伝える、伝達する、あるいは通じる、通じ合うぐらいの意味で日本語でも使われている。


そこでひとつ思うのが、掲示板への書き込みとケータイメールの類似点と相違点。個人的な印象でしかないけれども書き込みには、書き捨て的なニオイを感じる。単純にいえば、自分が言いたいことだけをいっておしまい、みたいなニュアンスだ。もちろん、誰かの書き込みに対してツッコミを入れたり、まともに反応したりするケースもある。が、基本的には一方通行じゃないんだろうか。


これがケータイメールにも似たような趣を感じさせる点だと思う。もちろんメールの場合は掲示板と違って特定の相手に対して書いているわけだから、書き捨てじゃない。あなたにだけ伝えたいことを書いているのは確か。なんだけれども、どうも相手からのレスポンスを期待するような内容になっていないケースが多々見られる。


というかレスをつけようがないというのが正直なところか。これもすべてのメールがそうだというわけではなく、もちろん連絡系の内容の場合は要件がきちんと書かれている。ところが、そうじゃない場合は、どうも独白系のメッセージが多いような気がする。


一方でケータイメールと掲示板の相違点は、その対象である。掲示板は不特定多数が対象であり、メールは特定の相手に対して向けられる。これは根本的に違う。


そうした違いを踏まえた上で、どうも一方通行のメッセージを多発する人が増えているような気がしてならない。もちろん人は自分の話を聞いてもらいたい生き物である。その話したい、聞いてもらいたい欲求がケータイメールという格好のツールを得ることによって、著しく刺激されているのではないか。


ということは、ケータイメールはもしかするとオバちゃん的カンバセーションのテキスト版ということになるのだろうか。ただし、ここでカンバセーションとテキストメッセージには決定的な違いがあることに注意する必要がある。なぜなら会話は基本的に無反省的に発せられる。しゃべるときに、あらかじめ何をしゃべるかを考えたうえで、一度その内容をチェックしてから声に出す人は少ないだろう。


ところがテキストは、必ずいったん外部化される。考えた言葉、思いついたメッセージがテキストとして、自分の外(つまりケータイのモニター画面ですね)に表示される。そこでは当然、無意識のうちに見直しが行われるはずだ。「この言葉はまずいな」とか「こういう書き方だと誤解されないか」といった推敲がなされる。


であればケータイコミュニケーションはもしかすると、コミュニケーション能力を高めている可能性も多いに考えられる。実のところはどうなのか。どうなんだろう。




昨日のI/O

In:
晏子宮城谷昌光
『私家版・ユダヤ文化論/内田樹
Out:
『広告・印刷発注の効率を上げる必殺虎の巻』


昨日の稽古: