1+1の四つの意味


人は1+1の意味と何回出会うか。


最初の意味についてはたいていの人が、おそらく小学校一年生の時に(あるいは、それより一二年早くに)出会う。いわゆる初歩の初歩の算数としての1+1、すなはち「いち たす いちは に」ということだ。


これが長じて中学生になると、等式の基本的な意味としての1+1=2との出会いがある。要するに等式の両辺は等しいという意味である。従って等式の両辺に同じ計算を加えても、等式は成立するという意味である。すなわち1+1=2の左辺、右辺にそれぞれ+1をしても、等式は成立する。


1+1=2であるなら
1+1+1=2+1
    =3 ということだ。
    
    
そして5年ほど前から小学生に算数を教えるようになって、足し算の意味といま一度出会うこととなった。どういうことかといえば、足し算は同じ単位のもの同士の間にしか成立しないということだ。だから犬が二匹います、人が三人います。あわせていくつでしょうか? といった問いは成立しないのである。


子どもに足し算の意味を教えなきゃといろいろ本を読むうちに、ようやく足し算の本質的な意味を理解するようになった。それ以来、子どもに算数を教える時にはいつも単位を注意するようにしている。


すると、たとえば旅人算などを教えている時にも、それは距離なのか、時間なのか、速さなのかをつねに意識させるようになる。これが最初は子どもにとっては混乱の種になるようだが、いったんわかり始めると自分が何の計算をしているのかを自覚するようになる。そうなればしめたものだ。間違いがうんと減る。


そして元旦の朝方、内田樹先生の『私家版・ユダヤ人文化論』を読んでいて四度目の1+1との出会いを迎えた。日本人が一人、ユダヤ人が一人います。あわせて何人ですか。この問いに対して、二人と答えていいのかどうかを考えるようになった。ユダヤ人というのは、それぐらい知的に違う人種かもしれないということだ。


ものすごく観念的な問いの立て方であり、こうした問いに意味があるのかどうかもわからないのだが、とりあえずそんな問いが浮かんで来たことだけは確かである。


だからどうだということなのではない。考えてみたいのは、たかが1+1といったどうでもいいようなテーゼ(などとたいそうな言い方をすべきなのかどうかも定かではないが)に対しても、人は一生のうちに何回も違った次元で出会うことができるのではないかということだ。


少なくとも自分にとっての1+1との出会いは、小学校に入る前後に始まって、中学校を経てさらに40過ぎにもあり、さらには40も後半の正月にまたあった。それぞれの出会いごとに、自分にとっての1+1の意味は異なっている。それがおもしろい。考えが深まっているようであり、何の意味もないことを意味ありげに勘違いしているだけなのかもしれず、あるいはただ堂々巡りしているだけのようでもある。


が、仮に堂々巡りをしているのなら、それでよいのではないかとも思う。以前、田坂広志さんにお話を伺ったとき、人間の思考とは螺旋的発展をするものだという説を聞かせていただいたことがある。およそすべての人間の思考が必ず螺旋的発展をたどるのかどうかは聞き忘れたのだが、もしかすると自分の思考もそうしたプロセスをなぞっている可能性がないとはいえないではないか(二重否定レトリックを使わざるを得ないのが苦しいところだが)。


何かについて考えるということは、こういうことなのかもしれないとも思う。というようなことを年の初めに思った。



昨日のI/O

In:
『私家版・ユダヤ文化論/内田樹
Out:


昨日の稽古:

・レッシュ式懸垂/腕立て/腹筋
・基本稽古
・平安初段