エウレカになるとき
- 作者: 茂木健一郎
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 2006/03/09
- メディア: 文庫
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いま目に見えているものが真実であるのかどうか。
そのことについてはじめて考えたのは確か、バートランド・ラッセルの『The Problems of Philosophy』を読んだときだった。たとえば机がある。その見た目、手触り、さらには叩いたときの音など、いわゆる五感のすべてはその物体がテーブルであることを教えてくれている。しかし、そうした感覚があるだけで「それをテーブルである」といいきっていいものかどうか。
仮にそれがテーブルだとしても、自分と他人では視点が違う。ということは、見ている対象としてのテーブルは同じだとしても、自分と他人とでは、そのテーブルから受けとっている感覚は、必ず異なる。異なっているにもかかわらず「同じ」テーブルといえるのだろうか。
うろ覚えだけれど、そんな英文を読んで「これはすごい」とうなった記憶がある。
こうした記憶がほかの作者の本を読んだ時に、いきなり蘇ってくることがある。だから読書はおもしろいし止められない。今日読んでいたのは『クオリア入門/茂木健一郎』だ。そのプロローグに次のような一節があった。
今、私の目の前に拡がっている牧場の景色は、私の外にあると思っているけれど、本当は私のこの小さな頭蓋骨の中にしか存在しない。
(茂木健一郎『クオリア入門』ちくま学芸文庫、2006年、9ページ)
この一節に触れた時、突然ラッセルの文章(というか正確にはラッセルの書いた英文のおぼろげな記憶みたいなもの)が、頭の中に浮かび上がって来た。もう少し厳密に記述するなら、ラッセルのこの一文に触れた時の脳の興奮みたいなものを再体験したというべきなのだろう。
大学時代に友人と自主購読していた『The Problems of Philosophy』をたぶん自宅の一室で予習していて、その一文の意味が分かったような気になってえらく気分が昂揚したことある。その高ぶりの様なものを再び感じることができたということだ。
世界は私の外に確かに存在するのだけれども、私にとっての世界は私の意識の内にしか存在し得ない。
だから私に見えている世界像と、私の子どもに見えている世界像は違う。私が見ている世界像と、家の飼い犬が見ている世界像も違う。自分が見ていると思っている世界を認識しているのは、自分の心である。
目が見えるというのは、視覚神経を通して入って来た情報による刺激が、脳の中のニューロンを発火させることなのだ。だから見ているモノが同じであったとしても、そのモノから得られた情報は人によって異なり(たいていの場合はほぼ同じなのだろうけれど)、その情報が引き起こす刺激がまた異なり、それによって引き起こされるニューロンの発火の仕方が異なる。
だから、たとえば同じ風景を見ても、人によってはそこからいかにもほのぼのとした牧歌的な趣を感じることがあれば、そこに何らかの霊的な瘴気を感じとることさえある。
あるいは同じ人間が同じ天候等の条件下で同じ風景を見たとしても、その人の心のありようによっては、その景観の見え方は異なったりもする。そんなイメージが一瞬のうちに頭の中をザァーッと音を立てて横切っていった。本を読んでいて背筋がゾクッとするような感覚に襲われることが、ごく稀に、たぶん何年かに一度ぐらいの周期で起こる。
これは自分にとって「エウレカ」の瞬間だ。
そんなエウレカに久しぶりに見舞われた。
昨日の稽古:
・レッシュ式腕立て/腹筋