口伝の意味
上虚下実。立身中正。三尖相照
中国拳法ではこういった言葉で身体の使い方を伝授した。さすがにイメージ力の強い漢字だけあって、文字を読むだけでも何となく意味がわかる。これがことばの力である。ときに日本の古武道には、今の空手や柔道のような段位なるものはなかった。あったのは中伝、奥伝、皆伝といった技の習得レベルを表わす用語だ。
誰がどれぐらいのレベルに達しているのか。それを判断するのは師範である。そして、これはあくまでも推測でしかないが、一応の稽古法はあったにせよ、技のポイントは口伝えで教えられたはずだ。
そこで思い出すのが『宮本武蔵/吉川英治』の一節。大阪城の工事現場で打ち首にされた武者から又八が手に入れた巻物に書かれていたのは、次のようなことばだった。
印可
一 中条流太刀の法
一 表
電光、車、円流、浮きふね
一 裏
金剛、高上、無極
一 右七剣
神文之上
口伝授受之事
月 日
越前宇坂之庄浄教寺村
富田入道勢源門流
後学 鐘 巻 自 斎
佐々木小次郎殿
(吉川英治『宮本武蔵』吉川英治文庫、昭和54年、211ページ)
これは佐々木小次郎がその師匠から授かった免許である。ある流派の技を師匠が弟子にすべて伝えることを免許皆伝といった。皆伝を授かったものに渡されるのが印可、すなわち免許である。いってみればいまの段位認定書のようなものだ。が、ここに記されているのは、これこれの技を間違いなく伝えたといった内容でしかない。
たとえばここにある「電光」という太刀の技がどのようなものなのか。それは実際の稽古を通してみっちりと伝えられる。そのときに師匠は、実演をし、さらにはその技のポイントをことばで説明する。そのことばを弟子はメモする。これが「手控え」と呼ばれる。大切なのは、このメモである。
この手控えと師の演武を頼りに弟子は稽古に励む。いまのように写真やビデオなど当然なく、武道の解説書等もなかった時代の稽古法である。だからこそ一回の稽古に臨む時の真剣さは今とは比べ物にならないぐらい高かっただろう。師の動きを目に焼き付け、師のことばを心に刻み込む。武道の稽古が人間修養にもなった所以である。
さて昨夜の稽古では久々に塾長から基本をしっかりと教わった。目からウロコ的なことがいろいろあったのだが、それはやはり簡潔なことばに集約されていた。たまたまいま自分が関心を持っている能の動きや、古武道的な身体の使い方にフィットしたことばが多かったというのもあるが、端的なことばにこそ身体の使い方のヒントがあることがよくわかった。
おそらくは古の武道の口伝も、そのようなワンフレーズメッセージだったのだろう。でなければ「ここをこうして、だからこうなって、そのときにはこの部分がこんなふうに動くから・・・」などとやっていたのでは、とうてい頭に入るものではない。
それよりも「(動く時は)前足の太ももから」とか「(突きのポイントは)背中を窪ませる」といったワンフレーズの方が、よほどイメージ豊かでわかりやすいではないか。そして、やはり武道を学ぶことがよりよく生きることにつながると実感できるのは、こういう体験をできた時なのだ。
自分の身体の動きが、たったワンフレーズの的確なことばで変わる。間違いなく一種の「アハ!体験」である。これだから武道はおもしろいし、やめられない。
昨日のI/O
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某社投資家説明用コーポレートストーリー
昨日の稽古:西部生涯スポーツセンター
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