納豆問題のあほらしさと恐さ


苦情1500件


関西テレビ発掘!あるある大事典2」に対して、視聴者から苦情や問い合わせが相次いでいるという(日本経済新聞1月22日)。その数日前の新聞には確か、「店頭から納豆が消えた」といった記事があったように記憶する。


まあ、ものの見事に番組内容にはまり、納豆を買いに走った人たちが、だまされたことを知って怒りまくっているということなのだろう。これはなかなか興味深いし、ある意味では恐いなあとも思ってしまう出来事だ。


たまたまいま、ある企業で研修を任されていて若手社員の方々と「クリティカルシンキング」について考えているところ。ちょうど先週の題材のなかで、マスコミ情報に気をつけようとか専門家情報や数字には特にだまされやすいから注意しようなんて話をしていたばかりで、研修を受けていた人たちには実にタイミング良く格好の生きた事例が提供されたことになる。


確かに今回のケースはタチが悪い。実験データのねつ造に専門家情報のでっち上げ、専門書の無許可引用とやりたい放題である。とんでもないというか、お詫びして済む問題とは到底思えない。しかしここは怒ってばかりいないで、この件から何かを学びたいではないか。


そう考えれば、視聴者サイドからいえば感謝すべきケースと捉えることもできるのかもしれない。すなわち今回の事件は「マスコミが言ってることだからって簡単に信じちゃいけない」という決定的な教訓を、我々に与えてくれたとも考えられるのだから。


逆に、それぐらい私たちはマスコミ報道に『だまされやすい』ことをもっと自覚すべきなんだと思う。マスコミに流された究極にして最悪の形の一つが戦時中の大政翼賛報道体制である。その結果どうなったかは改めていうまでもないだろう。


恐いなあと思うのは、どうも日本人の中にはいつまで経ってもそうやって一方向の意見に流される人たちがある程度のボリュームでいるように思えること。インターネットが発達して、これだけ情報が溢れかえっている状況になっているのにも関わらず、テレビが報道したことにダァ〜っと流されていってしまう。


そうした心情は、その底のどこかで多様性を拒否する気持ちにつながっていはしないだろうか。進化と生存にとって「多様性」は決定的に重要なカギだと思う。その多様性を歓迎するところまではいかなくとも、せめて多様性を許容し包容できるぐらいの度量はほしい。


これは教育の現場にも見事に当てはまる問題である。人と同じであることが賞賛される空気を創りだすのか、人と違うことに価値を見出すムードを醸成するのか。個人的には、誤った競争社会は人と同じことを追い求めるからこそ起こるのだと思う。人と同じことを求めることは、要するにみんなを同じ尺度の中に閉じ込めて競い合わせることではないか。


これに対して本質的に多様性を認めるならば、基準自体がバラバラなのだからそもそも競争そのものが成立しない。ここで問われるのが、個の自立性である。同じ基準体系の中にたくさんの人が含まれていて、その中で自分の位置づけが明確に示されていれば、人はとりあえずアイデンティティを確保でき、安心できる。


ところがそうした体系がなく、自分の価値は自分で決めるのだと考えるなら、人は常に自分と向かい合わなければならない。自分が生きている価値は何か。なぜ自分には価値があるといえるのか。こうした問いとつねに向かい合いながら生きることは、何より面倒くさく、しかもある種の厳しさを自分に突きつけなければならない。


だから、安易な方向へながされることはわかる。情報が溢れかえっているからこそ、一々自分で取捨選択する面倒さと、だからこそとりあえず何か信用できそうな情報、たとえばマスコミ報道に頼ってしまいがちなのもわかる。


けれど・・・、ということを今回の納豆問題は教えてくれているのだと思う。



昨日のI/O

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昨日の稽古:合宿にて

・各種柔軟体操
・基本稽古
・移動稽古
・ミット稽古