ONとOFFの区別って


不満足:47%、世界一


仕事と私生活の時間のバランスについての意識調査の結果。これによると世界の中でも現状に満足していない人がダントツに多いのが日本である(日経産業新聞1月30日)。基本的にはオンの時間が長い割にはオフの時間が短いことに不満があるのだろう。


仕事と私生活のバランスがとれない理由は大きく分けて二つ。まずは単純に就業時間が長いことがある。加えて十分に有給休暇を取れないことが続く。なるほど、制度としての有給休暇はあるとしても、それを消化できる人は限られているということか。


オンとオフの区別について私はおそらく、会社勤めをしている方たちにくらべてかなり意識が低いと思う。だから、このようにオンとオフのバランスが悪いと訴える人に対しては、ある意味うらやましくあり、同時にかわいそうだなとも少し思う。なぜそんなふうに思うかといえば、そもそもオンとオフをうまく切り離して考えられないからだ。


もしかするとオン・オフという用語自体が誤ったイメージをもたらしているのかもしれない。この言葉にはどうしてもスイッチが入っている/切れているといった機械的なイメージがつきまとう。このアナロジーに従うなら、働いている時間はスイッチが入っていて、私生活ではスイッチが切れているような感覚に陥りがちだ。


でも人が生きている限りスイッチが切れちゃあ、まずいんじゃないですかい。そりゃ眠っている間までスイッチが入りっぱなし、なんて人はこれもまたちょっと困り者ではあると思うが。何がいいたいのかというと、先日も書いたように生きている時間って、基本的にはすべてオンじゃないのってこと。


そしてオンの時間はできるだけ価値創造に使うべきなんじゃないかってことだ。しつこく繰り返すけれども、誰かに何らかの価値を提供するから対価を得ることができる。この価値の交換プロセスこそが、人の生きる意味そのものではないかと考えている。


それが合法的な価値であれ、イリーガルなものであれ。あるいは善なるものか、はたまた悪なるものかも問わず。善悪の判断、法律による判断などをすべて超えたところでおそらく価値交換は成り立っているはずだ。だって価値の基準は、これも一人ひとり違うはずだから。たとえ99.99%の人が「それをやっちゃダメだ」ってことであっても、そのことに対してたった一人でいいから価値を認めて対価を出そうという人がいれば、ディールは成立するのである。世の中から犯罪がなくならないのも宜なるかなである。


少し話がそれたが、人が生きることすなわち価値交換と考えるなら、やはり生きている限りは価値を創造すべく不断の努力をすべきなのではないだろうか。などと考え始めたのは、やはり自分に残された持ち時間との兼ね合いによるのだろう。いったい自分にはあとどれだけ、価値創造に使える時間が残っているのか。そう考えると、少し憂鬱になる年代に差しかかってきているのは間違いのないところだ。


あるいは自由業という傍目にはのんきにみえる稼業に携わっているからかもしれない。しかし自由業こそは「Always On」を求められる業態でもある。もちろん自由業と名乗るからには、いつ、どこで、どのように仕事をしようが自由である。しかしである、対価は提供した価値の分だけしか与えられない。会社勤めのように有給はおろか、病欠(あるいは公傷というべきか)も認められない。自由の代償は、なかなかスリリングというか厳しいというか。


休んで価値を提供できなければ、誰も対価をくれたりはしないのだ。そんなの当たり前じゃんと思うのだけれど、そうは思わない人も世の中にはいるみたいだ。たとえばオリックスを退団した中村紀洋選手などもそうなのかなと思う。彼は公傷を認めてもらえなかったことを理由に「こんな球団ではやっていけない」と判断したらしい。しかしである。厳しい言い方かもしれないが、そもそもケガをするのは誰のせいかってことだ。


疲労でケガをした、無理をしたからどこかを痛めた。あるいはデッドボールなど不慮の事故に遭った。突き詰めれば全部、自分のせいでしょうって思いませんか。だって同じことを自分に当てはめて考えてみれば、そのいずれの場合でも公傷などという制度は適用されない。飲み過ぎて取材に遅れた、好きなものばっかり食べてたから痛風が出た、急いでいて交通事故に遭った。いずれも「かわいそうに」ぐらいは言ってくれるかもしれないけれど、基本的には「単に自己管理できてないだけじゃん」で終わり。そんなの当然でしょう。


繰り返しになるけれども私が得ている対価は、それを認めてくれる相手に価値を提供しているからこそ得られるものである。であるならば、たとえどんな理由があるにしろ相手が認める価値を提供できなくなれば、対価は得られない。とてもシンプルですっきりしている。


もしかしたら、オン・オフ問題で不満を持っている人というのは、時間を提供して対価を得ている人たちなのかもしれないなとも思う。それもまた一理ある。時間というのは、換言すれば、その人の命を意味するのだから。命の一部を差し出すことに対する対価が給料なのだとすれば、そのバランスの悪さに不満を抱くことは理解できる。なるほど、そういうことなのかな。なんかちょっと違うんじゃないかという消化不良な部分が残るけれども。




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