スルー力の問題


スルー力』なる言葉がある。

スルー力 (するーりょく、するーちから) とは、物事をスルーする能力の事であり、高林哲氏により提唱された概念である。
この概念におけるスルーの定義は、ものごとをやり過ごしたり見て見なかったことにしたりすることを指す。
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B9%A5%EB%A1%BC%CE%CF


わざわざ「力」というからには、肯定的な評価がベースにあるのだろう。確かにこんな力でもないとややこしいこと、鬱陶しいことがありすぎてやってらんないといいたくなるような世の中ではある。これまでも実際問題として『スルー力』なる言葉こそなかったものの、そうした態度を長じて身につけることは大人として処世術の一つでもあったはずだ。


しかし、この力を幼い時から身に付けてしまうとどうなるか。といった問題が内田樹先生の新刊『下流志向』で提起されている。例に取り上げられているのが矛盾を「無純」を書いて平然としている学生だ。この学生は、この言葉を正しい意味で使っていたという。


その理由を内田先生は『スルー力』にあると指摘されている(厳密にはスルー力という言葉は使っていないけれども、論旨はそうだ)。

もちろん「矛盾」程度の漢語はマンガだってファッション誌にだって頻出します。それにもかかわらず「矛盾」が書けない。なぜか?
わからないことがあっても気にならない
おそらく彼女たちはその文字を読み飛ばしてきているからだと思うんです。
この「読み飛ばし能力」が、今の若い人たちは、僕たちの想像を超えるくらいに発達している
<中略>
「わからないもの」を「わからないまま」にしておくというのは、人間にしかできないことです。というのは、「判断を差し控える」ということは、「理解したい」という欲望を手つかずに持続させ、場合によっては「理解したい」という欲望を亢進させることだからです。
(『下流志向』内田樹講談社、2007年、22ページ)


ここで先生がいわれる「読み飛ばし能力」はおそらく、『スルー力』とニアイコールのニュアンスだと思う。要するに自分にはわからないもの、簡単には理解できないものとであったときに、それをなかったことにしてはいけないのだ。なぜなら、わからないものがあることをまずきちんと認め、その上でそれを理解しようとすることが学ぶということなのだから。


そもそも人間にはスキーマと呼ばれるある能力、ものを見る時の枠組みのようなものが備わっている。人がものを見たり聞いたり考えたりするときには、誠に当たり前のことではあるがまず「自分の持っている知識」をもって足りない情報を探して埋めたり、解釈したりしている。このとき働いているのがスキーマというわけだ。


スキーマはときに色眼鏡として働き、ものを歪めて見せることもある。しかしスキーマが働くからこそ、個々の断片的な情報をつなぎあわせて、意味をつけ曲がりなりにも理解することができる。これは人間に本来、備わっている能力だと心理学では考えられている。


だから、わからないことに出会っても普通はスキーマが働いて、何とかその意味を推測しようとするのが普通なのだ。こうしたおよそ本能的な作業を、まさに「力づく」で押さえ込んでしまおうというのが『スルー力』の実態なのではないだろうか。


最初に書いたように、スルー力のような能力を全否定するわけではない。生きていくにつれて人はいろんなしがらみに絡めとられ、面倒な状況に巻き込まれしてしまうことは確かにある。そんな状況の全てにまともに立ち向かって行ったのでは、疲れ果ててしまうだろう。だから状況に応じて、自分なりの判断を下した上で「ここは一つスルーしておこう」と考えるのが悪いとは思わない。


問題は、そうした心理的傾向を若年層において身に付けてしまうとどうなるかということだ。勝手な解釈をするとスルー力をポジティブに発揮することはたぶん、スキーマの働きを意図的かつ積極的に押さえ込んでしまうことになる。もちろん悪いスキーマを抑え、自分が抱えているバイアスを補正するのはまったく構わないのだが、必要なスキーマさえも強引に押さえ込んでしまうというのは、相当に問題がある。


それはもはや問題があるといったレベルではないのかもしれない。幼少時からそうした人間の本能を押さえ込んで育った人間というのは、ある種の新種(進化とさえ呼ぶべきなのかもしれないが)となっている可能性(もしかするとリスク)もある。いうまでもないが、そうした新種の人たちと従来の人たちの間で、まともなコミュにケーションが成立するとは思えない。『スルー力』問題の根は、恐ろしく深いのだと思う。


そうかんがえれば、もしかしたら若い人が何か発言を求められたときによく使う「ビミョー」という言葉も、スルー力の一貫なのではないだろうか。だとすればやはり、どんなに鬱陶しがられても子どもが「ビミョー」といったときには間髪をいれず、その言葉で表現したかった本意を掬いだしてあげる努力を大人がしてあげなければならないと思う。


わからないものがあるのはいい。それをすべて理解できなくてもいい。ただ、わからないものが厳然として存在するのに、それをなかったことにするのは絶対にダメ。これを子どもに教えてあげる必要がある。強くそう思う。



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下流志向』
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