汝、己を知るには


昨日の続き。


「汝、己を知れ」とえらそうに書いてみたものの、どうやって自分を知ればいいのか。などという問いに突っ込んでいくと、無限地獄にはまり込んでしまいそうなのだけれど。


そこを無理矢理考えてみると、一つ思いつくのは幽体離脱である。あるいは離見の見である。自分を第三者的にみる、まるでゴルゴ13のような視点だ。そんなことが簡単にできるかといえば、そんなわけがない。では、どうすればいいのだろうか。


おそらく、自分を知るためには他人の手助けが必要なのだ。たぶん自分一人でいくら考えていても、自分を知ることはできない。なぜなら、自分とは他人がいて初めて成立する存在だからだ。自分のほかに誰もいない世界では、自分は全能である。そこではどんな自分であっても許されるのであり、反省の必要などまったくない。反省のないところではたぶん、思考も生まれない。


ということは、自分が成立するためには、他人の存在がなくてはならないのだろう。ここにヒントがあるような気がする。相互作用である。


誰かと対面している。自分が相手に対して何かをする、言葉を発する。それに対して相手が何かを返してくれる。これをコミュニケーションという。そのコミュニケーションの中で、相手の反応を通して自分を確認する。たぶん、これが自分を知るための方法その一ではないか。そこで求められるのは、徹頭徹尾自覚的なコミュニケーションだ。


まず感情的になってはいけない。感情は思考にバイアスをかける。とはいえ言葉や動作に気持ちがこもっていなければ、それもまたダメだ。うわべだけのコミュニケーションに対しては、相手も同じレベルでしか返してくれない。必要なのはホットな心とクールな頭といったところだろうか。


そして自分が発する言葉や行動に対して、相手がどう反応しているのかを見極めることが必要なのだ。ここが単なる会話とは少し違った次元での対応が求められるポイントだろう。相手がもっているバイアスやスキーマを見て取る必要もある。


カジュアルなコミュニケーションであれば、気持ちの趣くままに相手にダイレクトに反応していればいい。その場合意識の次元は、相手と同じレベルに合わせておく方がいい。いわゆる気の合う仲間との、他愛もない会話である。何も難しく考える必要はない。ただし、空気だけは読み外さないようにしておかなければならないけれど、これはそんなに高度な技術を要することではない。


ところが会話を通して、己を知ろうとする場合は、少し話がややこしくなる。自分を知るというのは、まず相手から自分がどう見えているかを知ることがスタートになるはずだ。であるなら、自分の言葉、行為に対して相手がどう感じ、どう反応しているのかを理解しなければならない。それは要するに相手から見た『自分観』を知るということだ。


これが自分を知るための手がかりになる。


その先は、たぶんいろんな相手とコミュニケーションを取り、いろんな『自分観』を引き出す。そのすべてがおそらくは、知るべき『己』なのだと思う。ひいてはコミュニケーションのときに、そうした冷静さをいつも心がけることによって、少しずつ離見の見を持つことができるようになる。そんなことを思った。





昨日のI/O

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真弓氏・インタビューメモ

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