その化粧は誰のため?


優先席で、目の前におばあさんが立っているのにも関わらず、完璧に無視。ひたすら化粧に没頭する女性がいた。おそらく十代後半から二十代前半だろう。


そんなのはよくあることで、いろんなところで、いろんなことがいわれている。以前、取材に伺った沢口俊之氏は、彼女たちは子どもの頃から口にしてきた食べ物のせいで脳機能障害を患っているのだとおっしゃっていた。この説明が当を得ているケースもあるのだろうが、今日見かけた女性はどうもそんな生半なレベルではないように思える。とりあえず彼女たちは一体、誰に見てもらうために化粧をしているのだろうか。


化粧をするということは、たぶん(もしかしたら、彼女たちにとってはまったく違う儀式的な意味があるのかもしれないが)誰かにきれいだと思われたいからだろう。であるならば、少なくともその相手の前で面と向かって化粧することはないんじゃないか。自分のことをきれいだと思ってほしい相手の前で、化粧することが相手に対してマイナスイメージを与えることぐらいはわかるはずだから。


そこでものすごい独断と偏見になるが、彼女たちは人に化粧を見せることが恥ずかしいことだという認識そのものはあるのだろう(そう思いたい)。であるならば、たまたま電車の中で乗り合わせている他の人たちは、彼女たちにとって「人」とは認識されていないのではないか。


なぜ、そんなことが起こるのか(というか可能なのか)。


ここまでの強力な他人無視力は、おそらくは彼女たちの努力の賜物だろうと推察する。もちろん生まれながらにして、そんな力を持っていたはずがない。人は目の前に人が来ているのにもかかわらず、その人のことを空気のようにいないものとして無視することはできない。人が人を意識することは、人が人である証である。


ところが発達段階のどこかで彼女たちは、自分が興味のない人間は、そこに存在すらしないものとしてスルーする力を身につけた。これがすごいと思うのだ。自分に興味のない人間を存在しないものとして見なせる能力は、当然、自分が興味のないモノをも存在しないものとして見なせるだろう。とすると、彼女たちの目には一体この世の中はどのようなものとして映っているのだろう。


たまたま優先席に座ってしまって、目の前にお年寄りが来られてばつの悪い思いをしたことは間々ある。自分も四捨五入したら五十だとはいえ、まだまだ優先される身分じゃないことは重々わかっている。だから、タイミング悪くそんな状況になり、しかも席を譲ることができなかった場合は非常に気まずい想いをすることになる。大げさにいえばある種の罪の意識を感じる。


それは目の前に、本来なら席を譲るべき相手がいることをはっきりと意識するからだ。しかし、彼女たちにとってはそうした意識がない。ここでもう一つ、興味が湧く。では、彼女たちの意識に上り、しかも彼女たちが自ら進んでコミュニケーションを取りたいと思う相手はどんな人なのか。


さらには、万が一、自分から進んでコミュニケーションを取りたいと思う相手から、完璧に無視された時彼女たちはどんな気分になり、それはどのようなリアクションにつながるのか。


そんなに深刻に考えることではなく、もしかしたら若い頃の一過性の熱病みたいなものであることを祈りたい。とはいえ、この「無視力」が病のような外的要因に基づく症状ではなく、彼女たちの自発的な意図と努力によって身につけた能力であるとすれば、やはりことは重篤ではないだろうか。



昨日のI/O

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槇村久子氏インタビュー原稿
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