極意を語るひと言


「武道的な空手に受け返しはない」


塾長の言葉である。先日、道場で複数を相手にした組み手稽古をやった。そのことについて支部長が掲示板に書き込まれた内容を見て、塾長からのひと言が昨日加えられていた。


深いなあとつくづく思う。もちろん「受け返し」の稽古に意味がないという話じゃない。段階を踏んで稽古することが大切なのはいうまでもなく、まずは受け返しがきちんとできることが大前提である。というか、もう一つ遡るなら、イロハのイは受けである。


受けをきちんとできるかどうか。相手の動きをどれだけ正確に見切っているか。たとえば上段回し蹴りなら最後まできちんと見て、腕で受けるなら自分の腕のどの部分を、相手の蹴り足に対してどのような角度で受けるか。足が腕に当たったときにどう衝撃を吸収するか。予想外に蹴りが強かったときにはどうするのか。変則的な軌道で蹴り足が飛んできた場合の対処は。あるいは自分の構えは、足の位置は、などなど考えるべきことはたくさんある。


普段の受け返しの稽古のときに、まず「受け」に関してだけでも注意すべきポイントはいくらでもある。要は単純に見える受け返しの稽古でも、練り込む余地は奥深いということだろう。


その受けができて、次は受けから返しとなる。同じく上段回し蹴りなら、相手の蹴り足を捌いて、自分の次の攻撃をやりやすいポジションに持っていく。相手の体をコントロールすると同時に、自分のポジション取りを考える。


できれば相手のサイドから背後に回って、相手の態勢を崩していければよい。とここまで書いてきて気がついた。


相手のどこに自分の体を持っていくのか。相手の動きをコントロールするとはどういうことか。塾長がよくいわれる「サイドポジションに入れ」とは、どういう意味か。


たとえば相手の背後に回れば、よほどのことがない限りはそこで決められて然るべきである。どういう決め方をするかは状況に応じてということになるけれども、もっとも簡単で決まりやすいのは背後から相手の股を蹴り上げることだろう。あるいは相手との距離が近ければ、背後から肘を相手の側頭部に打ち込んでもいい。


もちろん試合(=ルールに限定されるという意味ですね)では反則である。しかし武道として考えれば、試合で反則となる技こそが最適解である。


塾長は、稽古は段階を踏んでともいわれる。その意味もよくわかる。武道的空手は、通常の試合ルールでやる組み手稽古のようには人を相手にした稽古はできない。だって金的蹴られたり、こめかみに肘を叩き込まれたりしたら危ない、というかそんなことを稽古で人を相手にやるわけにはいかない。


堂々巡りみたいな話になるが、そうした危ない、つまり一撃で必殺となる技を使いこなすのが、本来の武道ということになる。だから上級者になるほど稽古をしているときのイメージングが大切なのだろう。


ここでまた発見である。空手で一撃必殺というと、岩をも砕く鍛え上げた正拳一発、みたいなイメージがある。もとよりふにゃふにゃの拳で相手を叩いても効かないのは当然だ。が、一撃で必殺とするためには、急所を正確に狙え、ということだろう。あるいは一撃で仕留められる技を出せるような状態に、相手との関係を持っていけということだろう。


相手の攻めを捌いて、できるだけサイドに回り込むようにするのは何のためか。サイドに入ったときの自分のポジション、足の構え方、技の出し方はどうあるべきか。道場の稽古で実際に人を相手にして技を出すことはないけれども、サイドに入ったときに本当なら、たとえばどんなふうに相手の顔面に膝を入れているのか。あるいは相手の後頭部に肘を落としていくのか。そのときの自分の立ち方はどうあるべきか。


たしか以前塾長は、そこできちんと三戦立ちで立てているか、あるいは前屈立ちはこう使う、といった話をされていた。そういう実戦的な動きの中で自然に基本中の基本となる三戦立ちになれているかどうかが、これは基本を忠実に稽古できているかどうかの目安となるのだろう。それぐらい無駄のない足さばきというのが、相手との位置関係を優位に取る上で大切なのだと思う。


そしておそらくは型の稽古の本当に意味は、そうした足さばきを体に練り込ませること。相手との位置関係、必殺となる技の出し方(=急所の狙い方)などが型稽古には盛り込まれているんじゃないだろうか。どういうイメージをもって稽古をするか。自分の中で描くイメージによって、稽古の意味はまったく変わってくるのだと思う。



昨日のI/O

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K-OPTI副社長対談原稿

昨日の稽古:富雄中学校体育館

・縄跳びを使ったコーディネーショントレーニン
・基本稽古
・型稽古(太極一・足技太極一)
・組み手稽古