これが美しい国か


「もし週刊誌の取材がなかったら、どうなさってましたか?」


西武球団の社長に聞きたいのは、これだけ。このたった一つの質問に、太田社長はどうお答えになるだろう。そもそもきちんと答えられるのだろうか。絶句されてしまいそうな気もする。もとより答えてもらわなくても、あるいは、どんなお答えをされたとしても、本当の答えはみなさんが思っている通りだろう。


「できるなら、内々に処理してしまいたかった」と。そして、おそらくはこんなコメントが続くはずだ。「選手の将来を考えるなら、それが一番ではないか」と。なるほど、一見もっともらしい意見ではある。だが、ここでは極めて巧みに論点がすり替えられてしまっていることを見落としてはならない。


ことの是非が問われているのは、西武が「やってはいけないこと」を「隠れて」やっていたことに尽きる。選手の将来と、西武がやったこととは、きっちりと切り離して是非を考えなければならない。確かに相手がいなければ起こらなかったことではある。彼らがどちらかといえば同情すべき犠牲者かもしれないこともわかる。しかし、彼らにだって他の選択肢はあったのだ。つまり西武から「お金をあげるよ」といわれたときに、断ることはできた。でも、受けとってしまった。


表沙汰にはなっていないだけで、この手の誘いはたぶん日常茶飯事だったのではないか。その中には実際に断った選手、あるいはその父親、もしくはその選手が所属している高校の監督もいるだろう。さらに突っ込むなら「あの監督の選手のところに、そんなふうに金の話を持っていったらえらいことになる」といった風評を立てられている先生だっているに違いない。そうした監督の元にはスカウトだって金で寄り付こうとはしない。それだけの話ではないか。


だから、渡す方が渡す方なら、受けとる方も受けとる方なのである。どちらもほとんど同罪である。仮に早稲田の選手のケースで、選手自身がまったく預かり知らないところで金の受け渡しが決まっていたのなら、それは彼が不幸だというしかない。その場合は、彼は救済されていいだろう。しかしである。だからといって、西武が問題を隠したままにしても許されるわけがない。


それにしても、日本にはエリートがいない。西武球団の社長といえば、企業としての規模や業績はともかくとして、知名度や注目度の点から考えれば、本来ならエリートといわれる存在ではないか。実際にテレビに映る太田氏の姿形だけはロマンスグレーで温和、いかにもジェントルマンらしく見える。


しかして、その内実は、自社が不正を行っていることを明確に知りながら(彼は社長就任前は経理担当だったという。であるなら、不正な出費を知るだけでなくおそらくは許可もしていたはずで、真っ黒の関係者ということではないか)、それをできることなら隠し通そうとした。勘ぐれば、最終的には経理担当時代の自分の責任に追及の手が及ぶことを恐れた、とも考えられる。


そんな人間は、エリートではない。エリートとは佐藤優氏によれば

ごく普通の、価値中立的な言葉です。
<中略>
国家を含むあらゆる共同体はエリートなしには成り立ち得ないということを大前提として議論を進めます。そうなると、どのようなエリートが形成され(特に政治エリート)、国家を導いていくかということが問題になります。
現下、日本のエリートは、自らがエリートである、つまり国家、社会に対して特別の責任を負っているという自覚を欠いて、その権力を行使しているところに危険があります。
佐藤優『獄中記』岩波書店、2006年、200ページ)


ここにいわれている国家を企業と読み替えれば、佐藤氏の危機感は日本社会全体に当てはまることが理解できるだろう。しかし、そもそも日本にエリートなどいないのではないか、という悲観的な見方も成り立つわけだ。なぜなら、日本にはエリートを育成する機関がないからである。実は近代国家で、エリート養成機関をもたない日本のような国は極めて珍しい。


アメリカはいうまでもなく、イギリス、フランスをはじめとするヨーロッパ諸国はもちろん、中国にもエリート育成を専門とする機関はある。高校ぐらいからいわゆるエリート教育は始められるが、そこでは常に「君たちは、国家のリーダーとなるべき選ばれた人間なのだ。だから」という教育が徹底される。


過去に取材した方の息子さんがアメリカのエリート育成高校で学ばれており、その話を聞かせてもらったことがある。そのエリート教育のエッセンスをひと言で表現するなら「徹底した克己心と他者への慈しみ」である。


国家のリーダーたるべき人間なのだから、並の人間の何倍も努力しリーダーにふさわしい能力を身につけなければならない。だから、その息子さんの通っていた高校ではわずかに一年で大学なら4年でマスターするフランス語をやり遂げさせられる。あるいはエリートなのだから、弱者に対する徹底した優しさを持たなければならない。だから、その高校にはチャレンジド(障害者ですね)な学生が必ず含まれていて、その友人を自主的にサポートする姿勢が育成される。


そのように自己を厳しく律して努力する人間が、たとえば平均より多くの収入を得て、その収入に応じたレベルの生活環境を手に入れるのは当たり前のことである。しかし、その反面で彼らには徹底した『ノブレス・オブリージェ(→ http://ja.wikipedia.org/wiki/ノブレス・オブリージュ)』が要求される。これが単なる成金との大きな違いだ。ノブレス・オブリージェといえば富めるものの義務だとか高貴の義務などと安易に解釈されがちだが、それはまったくの誤解だと思った方がいい。


ノブレス・オブリージェとは共同体のリーダーとなるべきエリートが、自分を律するための掟である。だから、そもそも嘘をつくこと自体がすでにエリートではないのだ。しかもシラを切り、嘘を何とか隠そうとする、挙句の果てには嘘がバレバレであるにも関わらず、今度は逆に開き直る(光熱水費に一本5000円だかのミネラルウォーターが含まれると言い張るどこかの大臣みたいに)のは、決してエリートではない。そんな人間に国の舵取りを任せていては、本気で養成されたエリートが引っ張っている国に敵いっこないのも自明の理ではないか、とつくづく思う。



昨日のI/O

In:
レヴィナスと愛の現象学内田樹
Out:
学習ソフト広報用書籍企画


昨日の稽古

・レッシュ式懸垂