お父さんと一緒


全体の32%


平日に父親が子どもと一緒に朝食をとる家庭のお話。ただし、子ども(12歳以下)は、父親と朝ごはんを食べることを嫌がっているわけではない。事情はむしろ逆のようだ。休日の朝食が好きな子は全体の半分ぐらいいて、その理由は「パパが一緒だから」とか「みんなで食べられるから」ということらしい(日本経済新聞4月2日夕刊)。


うちは、父親が朝、のんびりしている家なので、子どもと一緒に朝ごはんを食べようと思えばできないことはない。実際のところ一年ぐらい前までは確かに息子と食べていたはずだ。ところが子どもの学年が上がるにつれ、夜寝るのが遅くなり、それは朝起きる時間がギリギリになることにつながり、彼が朝ごはんをのんびりとは食べていられなくなってきた。


それでは、お父さんの方が困るのである。


なぜかといえば、お父さんがじっくりたっぷり朝ご飯を食べられなくなるからである。朝は息子が属する集団を学校の途中まで見守ってやることになっている。ということは子どもと一緒に家を出なければならない。ということは、息子に合わせて朝ごはんとなると、とてもせわしない。


本来ならメザシの焼きたてを二匹、卵焼きを二切れほど(日によっては目玉焼き、ただし黄身は半熟やや柔らかめに限る)、じゃこにみそ汁にメカブに明太子などでご飯を丼一杯、といった朝ごはんが理想なのに、子どもに合わせてさささっとかっ込むとなると「卵かけご飯・以上終わり」みたいなとても淋しいブレックファーストに成り下がってしまう。


ならば、どうせほとんど毎晩のごはんも一緒に食べているので、まあ朝ごはんぐらいはよかろうと今のところ別々に食べている。


よく、子どもとコミュニケーションを取るためには「ご飯を一緒に食べて、そのときはテレビを消して、いろいろお話ししましょう」なんていわれる。なるほど、もっともな話だと思う。が、普通の家庭で、そんなふうにいきなり話しましょうといわれてもできるんだろうか。


話をするためには、そもそも共通の話題が必要だと思う。お互いが問題意識といえばたいそうだけれど、「あっ、それならぼくもこう思うよ」とか「こんなこと知ってる」と言い合えるテーマがあってはじめて、対話は成立するし、話が転がっても行く。


ところがたいていの場合は「今日、学校で何かあった?」といった親からの問いかけがあって、子どもの方が「うん、そうね(ボソボソ)」といった感じの尻切れとんぼで終わってはいないだろうか。そんな話が盛り上がらないのは当たり前で、これは子どもにとっては話したいことでもなんでもなくて、ただの報告に過ぎないからだ。


上からいわれて報告することが鬱陶しいのは、会社でも家庭でも同じである。何か話したいことがあって、誰かに聞いてもらいたいと思っていて、話してみたらうまく反応してくれた。そんな状態でこそコミュニケーションは活性化される。だから「学校で何かあった?」でも水を向ける言葉として悪くはないけれど、もう一歩だけ子どもが応えやすいネタに振ってあげるとか、子どもが何か答えたら即座に突っ込んであげるぐらいの気遣いがあってもいいのではないか。


その意味ではテレビがついていても悪くはないと思う。ただし、そのテレビを親子が一緒に見ることが大事だと。で共になって突っ込んだり、意見をいってみたり。そういう時間を共有していること、それが特にごはんを食べながらなら、なお良いと思う。


食事を共にすることには間違いなく儀式的な意味がある。一緒にごはんを食べて楽しい人かどうかはおそらく、人類誕生の昔から相手を見極めるためのもっとも原初的な判断基準だったはずだ。逆にいえば家族なんだからこそ、ごはんを一緒に食べるわけで、その時間が苦痛であったりするようでは、表面的にどんなにコミュニケーションが交わされていようとも、家族としての絆が危うくなってきている恐れがある。


いまの四十代以下の人たちにはもうわからないかもしれないけれど、たぶん40年ぐらい前までは、ごはんといえば家長を囲んで家族が揃って食べるものであった。そこでは家長は決して子どものご機嫌取りなどせず、黙々と食べ、かつ飲むといった有様だったように記憶する。


それでも、その場に参加し、ともに食卓を囲んでいる家族は「つながっている」感覚に安心することができた。それぐらいごはんを一緒に食べることは大切だ。個人的には誰かと食べるから食事になるのであって、一人で食べるのなんて「えさの補給みたいなもん」としか思えない。いろんな人と一緒にごはんを食べたいなと思う。



昨日のI/O

In:
ザ・サーチジョン・バッテル
Out:
ヒートポンプパンフレット・タイトルコピー


昨日の稽古:

・レッシュ式腹筋、腕立て、スクワット