極意は永字八法


永遠の『永』


この『永』という字には、漢字をきれいに書くためのエッセンスがすべて詰まっている。これを称して永字八法という。つまり漢字をキチンと書くためには、この『永』という字をしっかり練習すれば良いわけだ。


たしかに永を分解すると八つの要素になる。


筆順に即していくと、最初に点、次が横画、続いて真ん中の縦画。そして左側で右上へのハライから左下へのハライ。最後が右側の左へのハライと右下へのハライで『永』ができあがる。あらゆる漢字の書き方は、この八つの要素の組み合わせである。従ってまずは『永』をきれいにかけるように練習するのがいちばんと思い、仕事の合間にせっせと書いてきた。


実際には文字を手書きする機会はほとんどない。特に「きれいに」と意識しながらと書こうというのは、寺子屋にきている子どもたちの漢字プリントで間違い直しの朱書きを入れるときぐらいしかない。漢字の間違い直しだから、こちらがいい加減な字を書いてごまかすことはできない。楷書できっちりと書いてあげなければならない。これが未だに難しい。


永字八法でいえば、自分の場合は横画が最大の難点である。横線をスッと引くことができないのだ。起点でビビる、終点でしっかり止めることができない。起点と終点の間が流れのある線とならない。みっともないこと、この上ない。


最悪なのは、縦画と横画の接点である。たとえば「日」という字。これなどは左肩で縦画と横画がぴちっと接しているかどうかが、書かれた文字の見た目を大きく左右する。それはよくわかっている。わかってはいるのだが、それを意識すればするほど合わない。ずれるだけならまだしも、ずれないようにと意識するあまりに横画の始点がいかにも頼りない情けない姿となってしまう。


これは一体、何なんだろう。どうして、たかが「日」ごとき字をうまく書けないのであろうか。


自分が小学生ぐらいであれば、単純に練習不足の問題として片付けることができるだろう。ところが、こちらはもう五十前である。しかも、とりあえずはライターとしてやってきた人間である。今でこそ仕事の原稿は全部Macで書いているけれど、昔は原稿用紙にシャーペンで書いていたのだ。書くことに関しては、書家ではないにせよ、一応プロである。書いた文字の数で考えても、普通の人よりははるかに多いはずだ。


さらに悔しいのが、以前にも書いたことがあるが、物心ついた頃からずっと「字をきれいに書きたい」と意識もしてきたのである。ミミズののたくったような字やコロンコロンの丸文字などが許せないのは無論のこと、適当な崩し字も、一時ははまったけれども、やはりそれは正道ではなかろうと楷書体でキチンと書けるようずっと心がけもしてきたのである。


つねに美しい漢字を書こうと意識し、努力し続けてきたにも関わらず未だに、横画一つをまともに引けない。


もしかして、この筆(正確にはペンですね)をスッと横に引く運動能力が自分には著しく欠けているのではないか。とか、はたまた紙面上での横方向の空間認識能力に何か致命的な欠陥でもあるのか(年齢と高血圧症であることを考えれば、脳内で微小な欠損が起こっている可能性は排除できない)と訝ることしきり。


恐らくは、ごくささいな力の入れ加減にコツがあるのだとは思う。また、真横に引こうとするのではなく、ほんの気持ち程度の右肩上がり気味に書けばいいのだろうとも見当は付いている。付いちゃいるんだが、いざ書くとなるとやはりダメである。「日」のような簡単な字で間違うことはないが、漢字をきれいに書くためには筆順もおろそかにはできないポイントだと思う。


筆順は、筆の動きと密接に絡んでいる。行書、草書はいうまでもなく、たとえ楷書を書く場合でも紙とは接していない部分での筆の動かし方が、大切なのだろう。この筆の動かし方は、もしかしたら特定の漢字を書く上での意識の流れともリンクしているんじゃないだろうか。さらに何の根拠もなく推測するなら、そのときの意識の流れとは、その漢字の本来の意味ともつながっているのではないだろうか。


さらに、さらに突っ込むなら、その意識の流れは象形文字である漢字が、そもそもの対象からその形で文字として成立するまでの長い時間のプロセスさえもが何らかの形で関わっているのではないか。などということにまで関心が広がっていく。


とまあ、七面倒くさいことに思いを遊ばせるのもいいのだけれど、とりあえずは漢字、きれいに書けるようになりたいものだ。



昨日のI/O

In:
『人間と聖なるもの/ロジェ・カイヨワ
安土町教育委員会インタビュー
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対訳君開発者インタビューメモ


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