己を知るための他人


「汝、己を知れ」


この言葉がずっと引っ掛かっている。どうやったら自分を知ることができるのか。考えれば考えるほどに、わけがわからない。とりあえず内田先生は「自分が何を知らないかを知ることが知性だ」とおっしゃった(はずだ。うろ覚えだけれど)。


ということは、自分は何でも知っているなどと公言するのは「私は馬鹿である」といっているのに等しいことになる。今どき、そんなことをおおっぴらにいう人もまずいないだろうけれど。


話がそれた。


では、自分が知らないこととは何だろうかと突き詰めてみると、もしかして自分は何も知らないのではないか、という恐怖感に襲われる。そりゃ確かにいろんなことを知らないわけじゃないけれど、では、そもそも「知っている」とはどういうことなのか。本当に知っていることなんてあるのだろうか。


ちなみに広辞苑には「知る」を、(「領(シ)る」と同源) ある現象・状態を広く隅々まで自分のものとする意、と書いてある。広く隅々まで、ということがそもそも知ることの不可能性を象徴してはいないか。


少し例えを変えて考えてみる。自分ができることとできないことについてはどうなるだろう。


たいていの人は、できることよりできないことの方が多いはずだ。だが「自分はかくかくしかじかのことならできます」とはいえても、「自分ができないことは、あれとこれと、それとそれから」といった具合にすべて列挙していくことはできない。つまり自分ができないことをクリアに述べることは不可能なのだ。


ということは、おそらくは自分が何を知らないのかを「正確に」知ることも土台無理な話ということになる。では、内田先生は何をおっしゃりたかったのか。


自分が知らないことは世の中にはありすぎるほどあるのだから(それ故に、自分が知っていることなどたかがしれているのだから)、そのことをしかと弁えて謙虚に生きよ、ということだろうか。内田先生がそんな陳腐なことを言われるとは到底思えない。


ヒントはある。

すぐに分かることだが、「私」を含む風景が狭隘なものはうまく「マップする」ことができない(自分と自分の「同類」たちしか見えない視座からは、ほとんど自分のポジションについての情報は得られない)。自分が、自分を含む世界の中で、どこへ向かう道筋のどの点にいるのかを「俯瞰的に」把握できないものは、「私が・・・できない」「私は・・・を知らない」ということを適切な仕方で言語化することができない。
内田樹レヴィナスと愛の現象学せりか書房、2006年、20P)

律法の学者たちは律法修学生に最も重要な知的資質を「不能の認知」能力に見出した(それは、あらゆる知的営為の基幹をなす資質である)。それは「自分自身を含む風景を、自分とは別の人の目から眺める」ための想像力の運用のことであり、それこそが「他者」と交通する能力なのである。
(同、22P)

これである。


自分が何を知らないかを知るためには、まずは自分が知らないことを知っている他者を受け入れることが必要なのだ。そう考えれば、あらゆる他者は、自分が知らないことを知っている可能性を秘めている。話をいきなり卑近にしてしまう恐れがあるけれども、自分の子どもだって自分が知らないことを知っている。子どもの友だちもそうだ。その友だちの小さな兄弟だって、いろんなことを知っている。


一体、何がいいたいのかというと、自分は何も知らないのだという意識を、つねに持ち続けよ、ということである。すなわち、自分が知っていると思っていることについても、それを「本当に知っていると言い切れるのか」といつも自問自答せよ、ということである。


自分を含む風景を、自分とは別の人の目から眺める視点を世阿弥は「離見の見」といった。自分を知ることの極意は、どうも最終的にはやはりここに行き着くようだ。『花伝書』が演劇論であることを踏まえれば、人の人生も演劇のようなものとして考えるべきなのかもしれない。




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