ネットが奪ったもの


一日平均約15時間


とりあえずネットにつながっている時間である。朝起きてパソコンのパワーボタンを押すと自動的にネットにつながる。家で仕事をしているときは、そのあと一日中つながりっぱなし。勢い寝る前に電源を落とすまでの間はずっとつながっていることになる。


最近では外出しても『HotSpot(→ http://www.hotspot.ne.jp/)』を見つけては、そこからアクセスするようになった。『HotSpot』が近くに見つからない場合は仕方がない、ケータイを使う。ケータイのブラウザーを使えば、普通にネットのサイトを見て回ることができる。もちろんパソコンで見るのとはレイアウトが違うし、文字も小さい。しかしテキストを読むためであれば、ケータイでもほとんど支障はない。


ユビキタスとまではいかないにせよ、一日のうちのネット接続率はかなり高い。これによって10年前とはライフスタイルが大きく変わっている。ネットを使っていなかった時代のことを考えれば、いまはネット中毒状態にあるともいえるだろう。


もちろんネットによって、いろんなことが飛躍的に便利になった。便利になった見返りに支払っているコストは驚くほど少ない。ワークスタイルも大幅に変わった。仕事の打ち合わせもメールとケータイがあれば(携帯電話はあまり使わないけれど)、ほとんど用が済んでしまう。だから自宅に籠りっぱなしで仕事をしていても何ら差し支えない。


ネットの恩恵をフルに受けることによって、時間の使い方が大きく変わった。ということは生き方が変わったということだ。これは大きなメリットだろう。


ただし、である。ネットによって何かを失ってはいないかとも思うようになってきた。たぶん自分にしか当てはまらないとは思うのだけれど、失ったものは思考の質だ。


たとえば特定のテーマについて考えて、テキストにまとめる作業をしているとする。具体的にいえば企画書を書くといった作業がこれにあたる。


手始めにやるのが、テーマに関連するキーワードを打ち込んでの検索だ。これはネットを使えるようになりずいぶんと便利になった。同じようなことをネット以前にはどうやっていたか。パソコン通信が使えるようになった頃は、主に新聞、雑誌情報を検索していた。テーマについてのマクロ、ミクロ情報をこれで調べる。さらにわからないことがあれば、図書館へ出かけていって専門書を引っ張り出す。ものすごく時間がかかる。


ネットを使えば、ほとんど同じことを自宅で完結させられる。新聞、雑誌検索には利用料金がかかるけれども、それでも自分が図書館まで行って調べることを思えばうんと安上がりで済む。


専門情報については前ネット時代とは大きな違いがある。テーマ次第ではあるけれども、専門家によるピンポイントのレポートをネット上で見つけることができる。銀行やコンサル会社のシンクタンクがサービスで出しているレポートがあれば、大学の研究者のレポートもある。意外に使えるのが大学生の卒論だったりもする。


この手のレポートを読み込んでいけば、そのテーマに対する頭の中のマップを比較的短時間で創ることができる。問題はここに生じる。


何が問題なのかと言えば、マップが簡単にできてしまうことが問題なのだ。ネット以前とネット以後では脳内マップの創られ方が大きく変わったのではないだろうか。ネット以前では、特定テーマに関する情報を一網打尽的に一気に集めることはなかなかできなかった。だから新聞情報を漁り、ハウツー本を何冊か読み、然る後に専門情報に手を出すといった案配である。物理的に日にちがかかる。


最終的には自分の頭の中にマップはできあがるのだけれど、マップの要素は一つ一つ連続的にしか手に入らない。マップの全体像が出来上がるのには時間がかかるし、途中段階で抜けがあることも意識される。まず時間がかかることが一つ重要なポイントだ。頭の中にインプットされた情報が、いったん時間をおくことで消化される。


さらには「抜け」の意識が大切ではなかったか。つまり、自分が今までにわかったことからすれば「このへんに、だいたいこんなことが収まるのだろう」という予測をつけることになる。わかっていることが増えて行くにつれて、まだわかっていないことも少しずつはっきりとしてくる。予測をつけること、すなわち仮説を立てることである。仮説を立てれば、それはさらなる探求によって検証される。


ところがネット後は、白紙時点から一度にたくさんの情報を集めることができる。集まった情報を短期集中的にざっと読んでいくことで、以前に比べればはるかに抜けの少ないマップを作り上げることができる。抜けが少ないと思うことイコール全能感(というと少し大げさかもしれないけれど)につながる。すなわち「なるほど、だいたいこういうことだな」とわかってしまう(気になる)。


自分がわかってしまったと思えば、自分が知らないことがあるかもしれないという懸念は払拭されてしまうであろう。すると、そこで探究心も萎える。


一つ一つ順を追って知り、わからないことを意識しながら知識を習得していくのと、一気に全容(ではないのだけれど、多くのこと)を知ってしまった気になるのとでは、それ以降の思索の密度は異なって当然。といったことを最近、思うようになってきた。


昨日のI/O

In:
『人間と聖なるもの/ロジェ・カイヨワ
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対訳君ラフ原稿


昨日の稽古:西部生涯スポーツセンター

・移動稽古
・型稽古(太極一、太極三、足技太極一、足技太極三、平安一)
・ミット稽古(バランスを意識した様々な蹴り)
・組み手稽古1分×20セット
・補強