日本の子どもは孤独


孤独を感じる15歳:約30%


ユニセフが発表した子どもたちの「幸福度」調査の結果である。OECD加盟25カ国を対象に、子どもの意識調査を行った。その中で「孤独を感じる」と答えた日本の15歳の割合がダントツで高かったという。ちなみに2位がアイスランドの約10%だから、日本の突出ぶりがわかる。


その理由を考えてみると、日本の特異性が浮かび上がって見えてくるように思う。


日本の特異性の背景となっているのが(個人的な推測に過ぎないけれども)ゲームとケータイの普及である。恐らく日本の子どもたちは、ゲーム(Wii、DS、PSPなどですね)とケータイの所持率において、世界でも断然トップであると思われる。だから日本には、孤独感を感じている子どもが世界の中でも飛び抜けて多くいるのだと思う。


日本の子どもを孤独にしてしまった原因はゲームのリセット可能性とケータイコミュニケーションの一方向性(この用語法は自己矛盾的であるが)にある。どういうことか。


そもそもリセット可能性こそは、ゲームのエッセンスである。昨日も書いたように、ゲームというのは「快」状態持続マシンのことだ。なぜ子どもたちがゲームにハマるのか。楽しいからである。ではゲームはつねに楽しいのか。もちろん、うまく操れないときは楽しくない。ところが自分が持っているゲームであれば、うまくいかないときはリセットすればいい。つまりゲームとは万が一、不快状態に陥るようなことがあれば、リセットボタンを押すことによって不快を楽々とスルーしてしまえるマシンである。だから「快」状態持続マシンなのである。


幼い頃から、こういうマシンで遊び続けた子どもの不快に対する耐性が、極めて弱いものとなることは想像に難くない。本来なら、子ども時代とはつねに年上の友だちによる理不尽な(本人が幼いが故に理解できないだけともいえる)振る舞いにさらされることにより、不快に耐えることを学ぶ時期である。ところが少子化と(おそらくは)都会化が同時に進んだために、日本の子どもたちは同い年の子ども以外と接する機会を失っている。


そのためにいろんな年代の子どもと触れ合うことによって本来なら幼児期に養えるはずの「不快耐性」を身につけることができない。しかも自分にとって「快」状態持続マシンであるゲームで遊び続けることによって、さらに「不快耐性」を著しく弱めてしまった。そんな子どもたちのコミュニケーション能力が退化することは当たり前である。


さらに悪いことに、ケータイがコミュニケーションを一方向性に(ということは、もはやコミュニケーションとはいわないのだけれど)退化させた。ケータイとは会話ツールではなくメールツールを意味する。


ケータイメールのやり取りは疑似コミュニケーションでしかない。メールを交換するという点では双方向性が辛うじてキープされているようにみえる。しかし、頭の中に浮かんだ言葉が直接肉声として発せられるのではなく、指を使って文字に変換される段階で、言葉が本来帯びていたはずの生々しさは消されてしまう。本当ならこの生々しさを相手が感じてくれていることを「感じる」ことによって、コミュニケーションは全うされる。つまり自分が相手に受け容れられていると実感することができる。


ところがモニターに表示される文字からは、そうした生々しさは一切消えてなくなっている。絵文字やさまざまな記号を彼らが多用するのは、そうした生の感情の一部なりともを何とかメールを通じて相手に伝えたいと願っているからだろう。逆にいえば、メールでは生の気持ちが伝わらないことを彼らは恐らくは達観しているとも考えられる。


つまりメールでは伝わらないことを直感的に理解しながら、それでもメールに頼らざるを得ない。そうした状況ではコミュニケーションに対する深い絶望感が生まれるだろう。


生身の、本当の意味でのコミュニケーションとは、常に自分を「快」状態に保ってくれたりはしない。レヴィ・ストロースにならうなら、自分が相手から「快」状態を得ようと思えば、まず自分が相手に「快」状態を与えなければならない。その過程では、当然自分が「不快」になることも覚悟しなければならない。


生身のコミュニケーションでは、往々にして自分にとっての「不快」状態が起こりうる。そうした不快状態に耐えられないという自覚もある。だから生な会話を彼らは避けたがる。しかし、それでは自分が誰かに深く受け容れられている実感を得ることもできない。勢い「孤独感」に陥っていくのも無理ない話だろう。


この孤独感を解消するためには、自分の生の声を「聴いて」もらうよりほかに手はない。しかし、心をこめて自分の話に耳を傾けてくれる相手がいない。少なくとも同年代の人間は、そうした経験をほとんど持たず、故に人の話を「聴く(耳で聞くのではなく、心で聴くということです)」能力にも著しく欠ける。だから友だちと話していて癒されることは恐らくないだろう。


もしかしたら家庭内にも、聴いてくれる相手がいないのかもしれない。だとしたら、誰かが聴いてあげる必要がある。誰かに自分の話をきちんと聴いてもらい、自分を無条件かつ完全に受け入れてもらった安堵感を得ること。子どもたちを孤独から救うには、誰かが、それこそ全身全盛を傾けて聴いてあげる。これしかない。



昨日のI/O

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複雑さを生きる/安冨 歩』
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