鈍感力の危うさ


ベッド100床あたり50人


日本の看護師の数である。ちなみにアメリカは233人となる。欧米と比べて日本の看護師数は極めて低い(→ http://www.dominiren.gr.jp/modules/news1/print.php?storyid=146)。少ないのは看護師だけではない。1ベッドあたりの医者の数も日本はとても少ない。こちらはベッド100床あたりで比べればアメリカが64人、日本は12人となるようだ(→ http://www.e-resident.jp/essay/article.php?int_id=43)。


父親が糖尿病で病院のお世話になっている。連休中に見舞いに行ったら、6人部屋に入院していた。同室の患者さんにはアルツハイマーの方もおられるようだ。そんなお年寄りのお世話をかいがいしくしてくださっている看護婦さんをみて、心からありがたいと思うと同時に、ものすごく大変な仕事だなあとつくづく思った。看護婦のなり手が減っているという話もむべなるかな、である。


減っているというのは傾向の話である。だからとりあえず今後、看護婦のなり手はさらに減って行くだろう。これは日本人の全体的な傾向として不快耐性が落ちていることが大きな原因だと思う。日本人の不快耐性はこの先、劇的に低下していくのではないだろうか。


会社を3年で辞める若者が多いといわれる。辞める若者はおそらく2タイプに分けられるはずだ。一つは人生に前向きに取り組み、3年をメドに自分のステップアップを考えている若者。彼らは別に嫌なことがあって3年で辞めるわけではなく、期間を区切って学ぼうと決めた課題をクリアしたが故に、次のより高いステージを求めてシフトしているだけである。


もう一つは「3年で辞める」という表面的な言葉だけに踊らされている若者たちだ。イヤだったら辞めたら良いじゃんタイプといってもいいのだろうか。こちらは決して前向きに考えているのではなく、不快耐性が極めて低いために会社生活という不快状況に耐えられない。


そりゃそうだと思う。幼い頃からわがまま放題に大事に育てられてきて(こうした子育ては、本質的には「大事に」育てていることにはならないはずだが)、およそ好き勝手に、つまり「快」状態オンリーに近い状態で大きくなってきた若者たちである。不快耐性ゼロに近く、そもそも不快状況をほとんど経験していない可能性さえある。そんな若者に「イヤだったら、会社なんて3年で辞めていいんだよ」なんてあおりをいれれば、その結果がどうなるかは簡単に想像がつくだろう。


問題は、このまま低「不快耐性」の人間が増えていったときに、日本がどうなるのかということだ。少子高齢化で世界の最先端を突っ走っている日本は、こうした不快耐性人間急増国としても、世界が未だ体験したことの無いゾーンに突入しようとしているのかもしれない。


そもそも日本にどうして不快耐性の低い人間が増えたのか。その理由は一昨日のエントリーで書いた(→ http://d.hatena.ne.jp/atutake/20070506/1178403275)。


まずいなあと思うのは、こうした状況への対応手段として「鈍感力」や「スルー力」が持ち出されていることだ。不快なことがたくさんある、だから不快なことには鈍感になろうとか、スルーしてしまおうというスタンスは、状況をより悪化させるだけではないだろうか。


快・不快というのは基本的に、他者と接する状況下で起こる。だから不快耐性が低くなっているということは、他者と接する能力が落ちていることを意味する。端的に言えばコミュニケーション能力の欠如である。コミュニケーション能力を高めるためには、自分の外部状況(すなわち他者のことですね)に対して敏感でなければならない。さまざまな状況に対してスルーするのではなく、自らが主体的に関わらなければならない。


そこで鈍感力とかスルー力はおそらく、最悪のソリューションでしかない。何もかもを格差社会に結びつけて考えるのはどうかと思うけれども、格差社会の上にいる人間は、不快耐性こそが自己向上のカギであることを理解している。だから自分の子どもに対してまず最初に、細心の注意を払って身に付けさせようとするのが不快耐性である。


小さな頃からいろんな習い事を熱心にさせるのは、子どもにとっては習い事がそのまま不快耐性を養う訓練になるからだ。そこで磨かれるのは鈍感力ではなく敏感力であり、スルー力ではなくソリューション力である。幼少時からすでにこうした訓練を知らず知らずのうちに受けている子どもと、とりあえず子どもには好きなことをすきなようにさせてやればいいじゃないか的発想の親の下で育った子どもの不快耐性にどれだけの差がつくことか。


渡辺淳一先生に楯突こうなんて大それたことはつゆとも思っていないし、渡辺先生がおっしゃっている「鈍感力」は本来、他者に対するものでもないと思うけれど、「鈍感力」」という言葉だけが一人歩きしている状況は危ないと思う。



昨日のI/O

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