大人の条件


567ヶ月もしくは約20万7千日


この世で過ごしてきた。当年とって47歳である。しかし、未だに自分が大人であるという自覚が無く、依って自信も持てない。人並みに所帯を持たせていただき、子どもも授かっている。ごくわずかではあるが、自分のことを「先生」などと呼んでくれる子どもたちさえいる。にも関わらず、どうにも自分が大人だとは思えない。


なぜだろうか。


子どもの頃を振りかえってみると、47歳の男は立派な大人だった。今で言うオッサンとかオヤジといった軽薄な呼び方は、彼らにはまったく当てはまらない。それぐらいきちんと自立し、個がくっきりと際立った人たちが多かった(ように思う)。


翻って我が身をみれば、どうか。自立は、してないこともない。自由業の自営業などという浮きに浮いた仕事をしているために、この先の稼ぎがどうなるかはまったくわからないし、ここ数年は経済的に決して恵まれているともいえないが、とりあえず何とかかんとか食えてはいる。


個が際立っていないこともないだろう。少なくとも会社人であることをキッパリと辞める決断を自分で自覚的に下したのは、間違いのないところだ。それ以降、こんな自分にも「うちに来ませんか」といったありがたいオファーを何度かいただいたことはある。かなり気持ちの揺れるケースもあったが、最終的にはやはり一人でいることを「選択」してきた。そもそも人と群れるのがあまり好きではないことも影響している。


というわけで一応は自立しているし、個も立っているとは思う。思いはするが、自分が「大人」だとは到底思えない。なぜだろうか。


理由の一つとして思い当たるのに、自分の幼稚性を自覚していることがある。幸いにも外に出て人と会うことのそれほどない仕事に就いている。仕事場で一人で過ごす時間の方が外にいる時間よりも圧倒的に長い。おかげであまりバレていないとは思うけれど、本質的に自分はとても幼稚な人間だと思う。何が幼稚なのかと言えば、人と接する時の態度が幼稚なのだ。


以前のエントリー(→ http://d.hatena.ne.jp/atutake/20060607/1149631489)でも書いたように、多面的な視点を持ちたいといつも願い、持てるように心がけてもいる。また世阿弥の視点「離見の見」を学ぼうとしたり、内田先生の本を読んでものごとの捉え方を学ぼうとがんばっている。といった努力をすること自体がすでに自分の欠陥を露呈しているわけで、そういう視点を未だもってまったく身に付けられていないというわけだ。


従って人と対面すると、ものすごく近視眼的なものの見方しかできない。さらには相手の話を深く理解することもできず、あるいは相手の心にきっちり届く言葉を発することもできず、ゆえに会話はいつも表層的な内容を上滑りすることに終始する。


少しばかりいろんなことを知っているから、小賢しい理屈をこねることで自分をスマートに見せようとするが、そんなの所詮はうわべだけのことに過ぎない。人を測る力のある人が私をみれば「大人」とはかけ離れた幼稚な内面であることを一発で見抜くであろう。


主な仕事として人の話を聴くことを選んだのは、無意識のうちに自分の特性を理解し欠陥をカバーする戦略を思いついていたからだろう。話を聴く分には自分をからっぽにしておけば良い。もちろん、事前の勉強は必要だけれどもあくまでも基本的なスタンスはお話を伺うのである。相手と丁々発止の対談をするわけではない。だから、こちらの空虚さ加減がバレることはまずない。


ということで仕事はきちんとしてきた(つもりだ)が、幼稚性はキープされたままである。この幼稚性が抜けない限りは大人になることはできないだろう。なるほど、ここまで書いてきて何となくわかってきたのが、大人とは他者と対等に接することができる人間のことなのだ。より正確には対等にではなく、十全にというべきだろう。


つまりは他者をきちんと受け入れ、同時に自分を受け入れさせることもできる。ポイントは、この自己主張である。それは何も「オレが」「私が」と常に自己主張しまくれということではない。そうではなく、コミュニケーションの現場において「おどおど」しないことが肝要なのだ。ありきたりの言い方しかできないが、言うべきことを言うべきときにきちんと言えるかどうか。どうやらここに大人であるかどうかの基準があるようだ。


ということは、言うべきことをあらかじめ弁えているかどうかが問われることになる。とどのつまりは人生においてさまざまな状況においての自分のぶれない判断基準を持っているかどうかが問われることになる。なるほど大人になるということは、この判断基準を一元化するということなのだろう。そうした基準におそらく優劣はない。要は自分なりの基準を持てるかどうか。生きていく上での自分なりのルールをきちんと持っているかどうかということになる。そこが未だにない、ということが自分を大人と思えない最大にして唯一の原因なのだろう。


では昔の47歳はなぜかくも大人だったのか。彼らのほとんどがルールをきちんと持って生きていたからだと思う。昔と今の違いはここにある。昔はルールの選択肢が少なく、またそれぞれの選択肢が明確だった。だから人は比較的早くから自分が従うべきルールを決め(あるいは親によって決められ)、そのルールに自分を同化させる時間がたっぷりとあった。


ところが今や選択肢はいくらでもある。というかありすぎる。だからなかなか決めることができない。選択肢が無数にあり自分で決めるという点では欧米化しているともいえるのだろうが、そうしたシステムに日本人はまだ慣れていない。だからなかなか自分のルールを決めることができないのだろう。



昨日のI/O

In:
『おじさん的思考/内田樹
Out:
某社ソフト添付小冊子原稿
某ショッピングモール情報誌用原稿

昨日の稽古: