「五」や「一」を書けない子ども


一つの「一」を書けない子約30%
五つの「五」を書けない子約17%


漢字を書けない子どもが増えているという(日本経済新聞5月8日)。これは小学一年生の例で、四年生では「関心」の「関」の正答率が20%、五年生の調査になると「支持」の「支」を書けた子どもがわずかに7%しかいなかったようだ。


先日、医学翻訳の大家といわれる先生にインタビューしたときに、学生の翻訳能力が落ちているという話が出た。翻訳能力が落ちている原因を先生はいろいろ指摘されたが、その中のひとつに中学、高校時代に漢文を学んでいないことを挙げておられた。


なぜ漢文が英文和訳に必要なのか、これはかなり不思議である。答を求めると先生は二つ理由を挙げられた。まず日本語と異なる漢文の構文、構造を理解することが英語の構文理解の助けになること。さらに英単語に対してどのような日本語の言葉を当てはめていくかを考えるときに、漢文から学んだ漢語の感覚を掴めているかどうかが大きなカギになるのだと。


参考として先生が指摘されたのが明治の人たちの実に豊かな言語感覚だった。少し考えてみればわかるように、明治初期に持ち込まれた欧米文化、たとえば政治、経済、法律、科学などの基本用語は極めて巧みに漢語を使って日本語に置き換えられている。「newspaper」→「新聞」などはその典型だ。


こうしたことができたのは、日本人にとっては漢字がもっとも古くから馴染みのある文字だったからだろう。寺子屋で教えられていたのも、まずは漢文の素読みである。当時の人たちは漢字についての卓越した素養を持っていたのではないか。


日本語を構成するほかの要素、ひらがなとカタカナは漢字を元に作られた表音文字である。このように表意、表音文字をまぜこぜにして使い分けている民族は、世界にもあまり例がないのではないか(お隣の韓国もハングルと漢字を混ぜて使っていたけれども、最近はハングルの方がメインになっているんじゃないだろうか)。


とりあえず日本語は、漢字とひらがな、カタカナで表記される。そしてひらがな、カタカナは表音文字で、漢字は表意文字である。以前のエントリーでは日本語の論理構造について書いたけれども、もしかしたらこのように表意、表音文字をうまく使い分ける日本人には、独特の語学能力(というか感覚というか)が備わっているのではないか。


というぐらいに漢字は日本人にとっては大切な文字である。その文字を書けなくなってきている。もちろん小学校一年生が「一(いち)」という漢字そのものを知らないという話ではない。それぐらいは知っているはずだ。ところが漢字とひらがなを組み合わせて「一つ」を書けといわれると「一」が出てこない。


これは日本人として相当な問題ではないだろうか。


新聞記事では「テレビ視聴が影響か」と、漢字を書けなくなった理由を推測していた。その根拠として

テレビを見る時間が毎日一時間以下の子どもは、三時間以上見る子どもに比べ二百点満点の三年生分のテストで平均得点が四十五・八点高かった。
日本経済新聞5月8日・朝刊)


だが、本質的な原因はテレビを見ているかどうかではなく、テレビを見る時間が少ない子どもが、ほかに何をしているかにあるはずだ。ここから先は推測でしかないが、おそらくテレビを見る時間が少なくてテストの点が高かった子どもたちは、本を読む時間が長いんじゃないだろうか。


本を読むかどうか。幼い頃に読書の習慣をつけてもらえるかどうか。これはもしかしたら、今後の児童(幼児を含む)教育で決定的に重要な課題になると思う。小さい間に本を読む習慣をつけておいてもらわないと、ゲームで遊べる年代になってから本を読ませるのは、子どもにとって極めてストレスフルな作業になってしまう。


ゲームと読書を比べたときに、どちらがわかりやすくて「快」的であるかは勝負にならない。それでも幼い頃から本を読み、文字を追っている間に頭の中に文章に書かれている内容をイメージとして結ぶことができるようになっている子どもなら、読書をゲームとは違うカテゴリーの「快」行為とみなせるはずだ。


漢字、ひらがな、カタカナをうまく取り混ぜて表現できるからこそ、日本語は豊かにも美しくも、そして恐らくは論理的にもなり得る。その根本的な語学感覚を幼い頃に読書を通じて身に付けさせてあげること。これは親の絶対的な義務の一つだと思う。


昨日のI/O

In:
『狼少年のパラドクス/内田樹
Out:
京都大学医学部福島教授インタビューメモ
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