当たり前の感覚の大切さ


常識って何やねん!


物心ついて以来、ことあるごとに「常識」に反発してきた。そもそも常識なんてモノは、特定地域で特定の期間に多数派の方々に「一般的」と見なされるものの考え方でしかないと。


これが「そんなん常識やろ」といわれたときの個人的基本的な反応スタンスであったわけだ。たとえば、かつては一度結婚したら生涯に渡って添い遂げることが常識であり、簡単に離婚することなど非常識の極みとされていた。今は違いますね。


あるいは男の子の進路としては、いい大学を出てとりあえず大企業に入り、その会社で大過なく過ごし、40代ぐらいで家を建て、定年に至ってはガポっと退職金をいただいて(できれば関連会社に一回ぐらいは出向もして)老後は悠々自適みたないのが、常識的な人生だった(はず、少なくとも今の40代から50代ぐらいの方たちにとっては)。


でも、今の若い人にそんなことを言おうものなら「このオッサン、正気か?」的扱いを受けること必定である。というぐらいに常識なんていい加減なものである。


こうした常識に対するスタンスは決して変わらないものの、「当たり前の感覚」の大切さにも思いを馳せるようになってきた。この感覚は常識ではなく良識といえるのかもしれない。なぜ、そんなことを思うようになって来たかというと、やはり内田先生の影響大である。


先生の著書に『街場のアメリカ論』がある。内田先生はフランス現代思想の専門家、あるいは合気道の達人にして武道家ではあるが、アメリカ現代史やアメリカ思想史、あるいは政治学などについてはまったく素人である。ところが素人の視点からみたアメリカ論は、いわゆる専門家には思いも付かない斬新な発想に満ちていて個人的に得るところが極めて多かった。


さらに最近発行された『街場の中国論』然りである。この中に次のようなフレーズが書かれている。

僕は「常識的に考えて、ちょっとそれは……」と思っていたのですけれど、一九七〇年に「常識的に考えて」という言い分に耳を貸す人間はストリート・ファイティング・キッズの中にはみごとに一人もいませんでした。
そのとき「常識的に考えて、ちょっとそれは……」という懐疑の種子を育てることを止めてしまったことを、僕はあとでずいぶん悔いました。
内田樹『街場の中国論』ミシマ社、2007年、154ページ)


今にして思えば「そんなん常識やないか(父親の常套句でした)」と言う父親も、それに対して「常識てなんやねん」と単純に反発するだけだった自分も、どちらも思考停止状態であったという意味では同レベルなのだ。そういう単細胞的思考では、なんもわからんのである。


大切なのは、とりあえず「常識的に考えて」どうなのかを自分の頭で反芻してみる習慣だ。このとき注意しなければならないのは「常識的に考える」とは決してマスコミ報道的に考えることではなく、さらには専門家はこういってるらしいけれど的に納得することでもない。


自分の中にあるたぶん良心、良識みたいなもの(あいまいな表現で申し訳ないけれど)に照らし合わせてみて「それってどうなの?」という問いを発し続けることが大切なのだ。ということは、この方がうんとしんどいし、めんどくさい作業を自分に強いることになる。


だって、そうでしょう。「新聞に書いてあったし」とか「テレビでえらい人が言うてはったで」で済ませておいて、それをあたかも自分の意見のように思い込む方が、うんと楽だもん。が、それではたぶん内田先生のいわれる「常識的に考える」ことにはならない。そんなの当たり前の話で、テレビに出てくる偉い人や専門家は、常識的にではなく専門的に考えているわけだから。


むしろマスコミがみな同じように報道しているなら、その逆の視点で考えてみたらどうなのかとか。テレビで専門家が相反する二つの意見を言っているとすれば、第三の視点はないのかと考えたり、それこそ弁証法的視点を持ち込めばどうなるのだと考えてみることが、常識的に考えることになるわけだ。


そうやって考えると、いかにいろんなことが思ってもみないような見え方をしてくることか。とりあえずは内田先生が書かれた、今回の元公安庁長官と朝鮮総連総本部の間の一連の騒動に関するブログを読まれよ。これが常識的に考える見本である。
http://blog.tatsuru.com/2007/06/19_0843.php



In:
Out:
某ソフト開発物語
某ソフトユーザーインタビュー

■メルマガ最新号よりのヒント
「コラボで時間を買う」
http://blog.mag2.com/m/log/0000190025/
よろしければお読みください。

昨日の稽古:

・レッシュ式腹筋

街場の中国論

街場の中国論