アイデアが生まれる場所


「アイデアは移動距離に比例する」by高城剛


けだし名言である。確かにそうだと納得してもきた。が、その理由はと問われると、うまく説明ができなかった。ざっと考えて、あちらこちらに行くと頭が刺激されるからでしょう、ぐらいの説明しかこれまでは思いつかなかった。そんなの誰でも考えることだって。


が、先日来、禅的空間だの禅的エディターのことを書いてくる中で、高城氏の言葉の本質的な意味がうす〜っと形を表わしてきたのだ。なぜ、アイデアが移動距離に比例するのか。そこには無意識下でインプットされる情報量が関係しているのに違いないと。


たとえば、今このエントリーは近江八幡から京都に向かうJR新快速の中で書いている。基本的にはモニターをじっと見ているわけだ。が、ほんの少し視線を動かせば、実にいろんなモノが目に飛び込んでくる。窓の外を流れる緑の水田風景、窓ガラスに打ちつける強い雨とその流れる水滴、空を覆うダークグレーの雨雲、隣で眠りこけているサラリーマンのやたら毛深い腕、通路を挟んだ席では白い帽子をかけたおじいさんが何やら手帳に書き込んでいる・・・。


たぶんモニターを見つめてテキストを書いている間もずっと、こうした風景が自分の無意識の世界には飛び込んでいるはずだ。もとより飛び込んでくるのは視覚で捉えられるものだけではない。


音もある。まず電車の音、車内アナウンス、風切り音に雨の音。私の後ろに立っているサラリーマンの二人連れがしゃべっている。ところどころ聞き取れる単語もあるけれど、全体としては何を話しているのかはまったくわからない。わからないけれども、その音は確実にインプットされているし、もしかしたら無意識下では会話されている内容そのものも頭のどこかに記憶されているのかもしれない。


雨のニオイだってしっかりとインプットされている。あるいは湿気に蒸せかえった汗の臭いも漂っているような気がする。ことほど左様に外に出れば世界は刺激に満ちている。


昔、あるパッケージデザイナーが「発想に詰まったら、大川(大阪の街中を流れている川ですね)の遊歩道を歩くんです。すると、頭がリフレッシュされるだけじゃなくて、いろんなアイデアが浮かんでくる」と言っていた。この言葉の意味がようやくわかった気がする。


おそらく彼は、ものすごく自然感度が高い人なのだ。だから川の水のざわめき、川面にきらきら反射する陽光、風にそよぐ木の葉の音、木々の間からチラチラと射してくる木漏れ日、どれ一つとして同じものにない木の肌の色。川べりの散歩道を歩くだけで自然が与えてくれる刺激を全身で受けとめるることができたのだろう。


人工物と自然の造形物を比べれば、どちらが多様性に満ちているかは言うまでもない。


一口に「木」といっても、一本一本の木はみんな違う。この広い世の中に50何億人もの人がいるにもかかわらず、自分とまったく同じ人間が一人としてほかにはいないように。


大川べりの遊歩道など、人口の半分混ざった自然である。それでも自然の中を歩くだけで、そこからはそら恐ろしいまでの刺激を彼は得られるに違いない。とはいえ刺激を受けるのは自然の中だけでなければならない、なんてこともない。人工の街の中でも、普段とは違う風景に身を置けばそれだけさまざまな刺激を受けることになる。ここでようやく冒頭の高城剛氏の言葉に立ち返る。


要するに彼が「移動距離」という言葉で表現したいのは、日常の風景からの離脱度を示唆しているのだろう。非日常度が高まれば高まるほど、そこから得られる無意識の刺激はおそらく、等比級数的に増えていく。だからそうした刺激にインスパイアされてアイデアが次々と浮かんでくる。


ということを言いたかったのだろう。なるほど、ということは原稿仕事をするにしても、毎日同じ机でやっているよりは、場所を変えた方がよいのかもしれない。


昨日のI/O

In:
『秘花/瀬戸内寂聴
Out:
奥出直人教授インタビュー原稿

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「あり得ない」にチャンスあり
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昨日の稽古:

・レッシュ式腹筋