お金はきたないか?


「お金儲けは悪いことなんですか」


一審で実刑有罪判決の出た村上氏の名セリフである。たまたま今日の日経夕刊で、お金に対する見方を説いたエッセイがあった。『ビル・ゲイツ?』というタイトルで、筆者の長谷川櫂氏は次のように書いている。

では、昔の日本はどうだったか。
<中略>
お金は「きたないもの」とされていた。

もしジャパニーズ・ドリームなるものがあるなら、それは一攫千金やお金もうけではなく、むしろ、その反対、世捨て人のような清貧の生活こそ、日本人の理想だったはずだ。

この国ではお金持ちは尊敬に値しないどころか、うさん臭い目で見られることになる。
日本経済新聞7月20日夕刊プロムナード)


長々と引用してしまったが、このエッセイには実に興味深い問題提起がなされていると思う。確かに私(現在47歳)も子どもの頃には公務員だった両親やおばあさんに「お金は汚いもんやで」と言われて育った。だからお金を触ったら、特にごはんを食べる前などは必ず手を洗うように躾けられたし、巡り巡っていま自分の子どもにもそう教えている。


ただし、お金が汚い理由は決して精神的なものではなく、単純に物理的に汚れていると思うからだ。いろんな人の手を経て、いろんな経路をたどってきているわけだから、とりあえずきれいだとは言えないでしょ、ぐらいの感覚である。


だから「お金は汚い」という言葉には反感を覚えたりはしないのだが、「お金持ちが尊敬に値しないどころか、うさん臭い目で見られることになる」とまで言われると、それはちょっと違うんじゃないだろうかと思う。なぜなら、お金持ちになっているのはあくまでも結果であって、大切なのはどうやってお金持ちになったのかではないのだろうか。


お金をたくさん稼ぐというのは、悪事を働くのでない限りは、それだけの価値を世の中に提供したからだと思う。ものすごくシンプルな性善説かもしれないが、板倉雄一郎さんが繰り返し説いているように、世の中は価値と対価の交換で成り立っている思う。だから提供価値が大きければ、対価も大きくなる。


もちろん対価が常にお金であるとは限らない。たとえば親は子どもに目一杯の愛情を価値として提供する。それによって親が得る対価は、子どもの成長だ。ボランティアだって同じことだろう。たとえばいま柏崎村まで出かけていってボランティアに励んでいる人たちが期待している(もちろん、それを意識しているわけではないと思うけれど)対価は、自分たちの活動で被災された方々が少しでも早く健やかさを取り戻すことだと思う。


自分が提供した価値と、それによって得られた対価のバランスが取れているとき、人は幸せなんじゃないだろうか。


そこで問題なのだけれど、仮に「お金は汚いもの、だから決して儲けてはいけない」という考え方が刷り込まれてしまうとどうなるか。対価が原則的にお金であることを踏まえるなら、価値は提供しても対価となるお金は受けとってはいけないということになりはしないか。


もちろん、このいわゆる『清貧の思想』に異を唱えるつもりはまったくない。みんなが、そう考えてせっせと進んで価値を提供し、その対価をあまり受けとらない社会は一種の理想郷だと思う。なかなか実現できていないけれども共産主義というのは、ある種そうした理想郷を求める考え方じゃないんだろうか。


しかし、一方で人間は安きに流れる生き物でもある。そこでこの清貧の思想がまかり間違ってしまうと「どうせ大した対価も受け取らないのなら、最初から提供する価値もそれに見合うだけに減らしてしまっても良いではないか」といった方向に流されはしないか。一部の公務員の方々には、そうした趣が見られるような気もする。あるいは俗に「会社にぶら下がっている」と言われる人たちも、似たような考え方をされているように思う。


だから、やはり価値と対価はきちんとバランスが取れているべきだと強く思うのだ。その結果として仮にお金持ちになったのだとしたら、それはやはりきちんと敬うべきだろう。


ここで一つ注意することがあるとすれば、価値は時間をかけて創造されるしかない、ということ。いい加減な価値はそれなりの対価しか本来は得ることができないはずだし、人が創った価値を横からかすめ取るようなことは絶対にしちゃいけない。


だから冒頭の村上さんのセリフに対しては「お金もうけは決して悪いことなんかじゃありません。ただし、きちんと価値を創造、提供した場合だけですよ」と反論してやれば良ろしい。


にしても速攻で保釈金7億も出せるって一体、どれだけ稼いだんだろ。



昨日のI/O

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某ソフト開発物語
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・レッシュ式腹筋