自分の範囲ってどんだけ〜?
ボランティアは自分のためにするもの
そんなことを以前のエントリーで書いた。
ボランティアとは、人のために自分を犠牲にするのではない。あくまで自分のためだ。つまり、これまで自分を支えてくれた社会に対して自分にできる返礼をする。その結果、自分もその社会の一員になれたな、と自分で思えるようになる。それがボランティアだと。そんなことを背中で教えてもらった。
→ http://d.hatena.ne.jp/atutake/20060429/1146258389
つい先日、取材させてもらったカフェグループのオーナーは、とにかく自分のことだけを徹底的に考えることが大切だとおっしゃっていた。何のために仕事をするのか? 自分のため、自分が幸せになるため。だから、まず自分のことだけを集中して考えなきゃダメだと。
さらっと聞き流しただけなら、ものすごいエゴイスティックな考え方に聞こえる。でも「自分のことだけを考える」ことは「自分さえ良かったらいい」という考え方とはまったく対極にある。どういうことか。
自分が幸せでいるためには、まわりの人が幸せじゃないとダメだってことだ。いくら仕事がうまくいって認められてたくさんお金を貰えるようになったとしても、家に帰ったときに子どもが不幸せそうな顔をしていたら、絶対にハッピーにはなれない。そういうことです。
そりゃもちろん、家族のために頑張っていることはわかる。でも、そんなの当たり前のことで、家族のために一生懸命になるという理由で家族を(その笑顔を)犠牲にするのは、どこか間違っている。
じゃ自分が幸せで、家族が幸せだったら、それでいいのだろうか?
もしいま、自分が家族共々幸せでいられるのだとしたら、それは誰のおかげなんだろう。と考えたとき、とりあえず家族に関係がある人たちの誰かが悲劇的な状況におかれているとしたら、それは平気でいられるだろうか。
だからといって自分や家族やそのまわりにいる人たちみんなのために、直接的に自分が何かできるのかといえば、現実問題としては無理。だから人はボランティアをするのじゃないかと思った。
特定多数(多数とまでいうと少し大げさかもしれないけれど)の人のことをいつも気にかけて、その人たちのために何かしたいと思っている人がいるとしよう。しかしその人には実際問題としては知り合いのAさんやBさんがいまどんな助けを求めているのかわからない。だから、まずは身近にいて自分がお手伝いできる不特定多数の方のために、自分にこなせる何かをする。
いささか蘊蓄めいた物言いを許していただくなら、「人」という漢字は人の立った姿から生まれ、元は身近な同族や隣人仲間を意味した。そこから転じて人と人が支え合っている様子を表すという解釈ある。人は人によって支えられてはじめてきちんと立てるという意味だ。孔子さんは、その支え合っている人の範囲を実に四海同胞にまで広げた。この世の中の人すべてのおかげでいまの自分があるのだと(そこまで広げられると孔子さんほどのスケールがない人たちにはほとんど理解不能になってしまうだろうけれど)。
あるいは「人間」という言葉は、人の間で生きていく、あるいは人の間でしか生きることのできない存在を定義する言葉である。というぐらいに、人は本来的に自分のまわりにいる人たちによって活かされている存在だと思う。そのとき「自分のまわり」をどれぐらいの範囲に設定するのか。
それは人それぞれに考え方があっていいのだろう。あるいはどれだけの歳を重ねてきたのか、またそれまでに人からどんな支えを受けたきたのかによっても範囲設定は変わってくるものだろう。とはいえその範囲がどれぐらいあれ「自分のまわり」にいる人たちのために何かをするのは、あくまでも自分のためなのだ。改めてそんなことを思った。
昨日のI/O
In:
『よくわかるリフォーム業界/八木正勝』
Out:
佐藤裕久氏インタビューメモ
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「トレーサビリティーを意識する」
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