気持ちを伝える音


ありがとうございます


やわらかなことばがとても耳に心地よく響いた。真っ白な髪を自然な感じで後ろに流しているその男性は六十代半ばぐらいだろうか。白のシャツの襟元に緑色ベースでペイズリー柄のアスコットタイをあわせ、グレーのツイードのジャケットを着ている。その雰囲気とここが学士会館であることをあわせて考えれば、たぶん大学の先生ではないか。


私と同じ、和朝食を選んだ老先生は、納豆についていたビニール袋入りのたれを開けるのに難儀していたのだ。その様子を目にとめたボーイさんが彼のもとによっていき、袋を開けてあげたときに老先生の発したのが冒頭の言葉だった。


それほど大きな声を出されたわけではない。でも、老先生が着いているテーブルから少し離れた席にいた私にも、はっきりと聴き取れた。その場所、学士会館1階のセブンズ・ハウスがとても静かだったこと、加えてふだん講義をされているからだろう、滑舌がよく発音がはっきりしていたこともある。その言葉からは本当に感謝している気持ちが、老先生とはテーブルを一つ挟んだところにいる私にも伝わってきた。


その少し前、朝食会場となっているこのラウンジに入ったとき、同じボーイさんが私を席まで案内してくれた。そのとき私も彼に「ありがとう」と声をかけていた。しかし私の「ありがとう」と老先生の「ありがとうございます」には明らかな違いがあった。言葉に宿ったもの、言霊の質がまったく異なるのだ。


私のことばは単なる儀礼である。条件反射的に発せられた音に過ぎず、本来のことばそのものに含まれている「感謝」の意味は込められていない。だからといって案内してくれたボーイ氏に対して、何らかの反感を抱いていたかといえばそれはまったく違う。すくなくとも何らかの感謝的な気持ちは確かに抱いたのだ。だから「ありがとう」と言った、深い意味を込めずに。


では、老先生の「ありがとうございます」は、私の「ありがとう」とどこが違っていたのだろうか。なぜ、老先生の発した音はまわりにいる私にまで快く響いたのだろうか。


違いははっきりしている。老先生は困っている自分を助けてくれたボーイ氏に対して、心からの感謝の気持ちを込めて「ありがとうございます」と言ったのだ。同じようなことばだけれど、そこに込められた意図のあるなしでことばの響きは変わる。相手への伝わり方も違う。


件のボーイ氏が私を席まで案内してくれたとき、おそらく彼は私から感謝の気持ちを込めたことばをかけられたいとは思っていなかっただろう。彼にとってはそれも仕事である。もちろん私の「ありがとう」に対して会釈はしてくれたけれども、そこには気持ちの交流はない。お互いに、それが儀礼であることをわかっているのだから。むしろ私のことばに若干の上から目線をかぎとって、微かな反感を抱いた可能性だってあるぐらいだ。


ところが老先生に言葉をかけられたときの彼の表情は、はた目で見てもはっきりとわかるぐらい和んでいた。おそらくは彼にとっては納豆のたれの袋を開けてあげるのも、朝食に訪れた客を席まで案内するのも同じレベルの仕事のはずだ。が自分が提供したサービスに対して戻ってきたことばに、明確な気持ちが込められていたとき、ことばは単なる音以上の、つまりことば本来の意味を持った。


「ありがとう」のたったひと言をとってみても、伝わる「ありがとう」と伝わらない「ありがとう」がある。自分がふだん何気なく使っていることば、本当に伝えたい気持ちがあってことばを声にするとき、きちんと気持ちを込めているだろうか。込めた気持ちは相手にちゃんと伝わっているだろうか。


そんなことをふと、考えた。




昨日のI/O

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『大人は愉しい』内田樹
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高見のっぽ氏インタビューメモ


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