教えることのメリット


今年から子どもたちの指導を本格的にさせてもらっている


指導するほどの力があるのかどうかがとても悩ましいのは言うまでもない。これが寺子屋のようなお勉強ならまだよい。今のところはまだ、自分の方が子どもたちよりもいろんなことをよくわかっているし、自分が子どもの頃には考えが及ばなかったような理解に達してもいる。


実際のところわり算と分数、比と割合の関係などは今さらながらにしていろいろおもしろい発見がある。算数然り、漢字の書き方一つとって見てもそうだ。それはさておき、空手の指導をするとなると自分が頭でわかっていたり(これがそもそも難しいが)、ことばで説明できる(子どもたちが相手となるとさらに難易度は高い)だけではだめで、実際に自分の体で演じてみせなければならない。これはきつい。


たとえば柔軟体操なんかでも、稽古が始まる前にきちんと自分の体をほぐしておかないと開脚しておでこを付けることができない。子どもたちにせめて膝を曲げずに足をきちんと開いて、おでこぐらいは付けられるようになろうと言っている手前、自分ができないというのはよくない。


あるいは縄跳びにしても、手と足をうまくあわせて動かす運動になるからとやらせているからには、自分がそれなりにできないとやはりこれも示しがつかない。そして基本稽古にしても移動稽古にしても同じだ。たとえば前屈立ち前蹴上げなどでは軸足一本で立って、体がぶれないようにして足をぶらぶらさせたり、その姿勢から前蹴上げを何本かやってみようなんて言っているから、これも自分ができないとサマにならない。


おかげで家でまた基本を稽古するようになった。いささか本末転倒気味ではあるが、そうやって子どもたちに教えることを前提に基本稽古をやり込むと、その意味を自分でまた考えたりする。これはすごく得をしていると思う。


何ごとも人に教えるつもりで取り組めば理解が深まるとはよく言われる通り。特に子どもたちに教えるとなると、わかりやすく説明できなければならない。わかりやすく説明しようと思えば、わかりやすく説明できるレベルまで自分が理解していないとならない。これは結構大変なことである。でも、そうやって考えることはおもしろい。


そしてそのおもしろさをできれば自分の体の動きで表現してみせてあげることができれば、もっと良いと思う。もっともこちらは年齢との勝負になる部分もあり、そう簡単にはできないけれども、やらなくちゃと思っていれば、その気持ちが老化を少しは遅らせてくれるかもしれない。


それにしても基本稽古、移動稽古、型稽古、約束組手の意味をいろいろ考えるようになった。今のところようやくわかってきたのが、すべての稽古は空手的な動きを自分の体に覚え込ませることに意味がある、ということだ。基本の突きや蹴りはもちろん、移動も型もそんな(実戦の場では型にはまった)動きをすることは絶対にないやろ、と思ってはダメなのだ。


約束組手も同じだと思う。最初はゆっくりとで構わない。相手がこう動いたら、自分はこうする、という動きの系列を自分の神経に練り込んでしまうとでもいえばいいのだろうか。それができれば意識せずに身体が動くのだと思う。そのレベルまで行くことが稽古の唯一の目的、そんなふうに思うようになってきた。





昨日のI/O

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昨日の稽古:西部生涯スポーツセンター

・縄跳び
・基本稽古
・移動稽古
・約束組手
・ミット稽古
・組手稽古