交通事故と国民性


886,864件。これは平成18年度の日本の交通事故数である。
http://www.npa.go.jp/toukei/koutuu1/01home/accident2.htm


そして388件vs694件。これは人口10万人当たり事故率で比べた日本とイタリアの比較だ。さすがにラテンの血が騒ぐイタリア、情熱的なイタリアンは事故も多いのだな、などと納得されては大間違いである。人口10万人当たり事故率が高いのは日本の方なのだ(→ http://cemt.org/IRTAD/IRTADPublic/we2.html


ちなみに日本のデータは2006年ベース、イタリアのデータは2004年ベースなので、正確な比較ではないことをお断りしておく。このIRTAD(International Traffic Safety Data and Analysis Group)のデータによれば、人口10万人あたり事故発生数が最も多いのは日本である。日本に次ぐのがアメリカで626件となっている(2005年ベース)。


なかなか考えさせられる数字だと思う。


もう10年以上前になるが、イタリアに旅行に行ったことがある。そのときに乗ったクルマはタクシーと白タクみたいなもので、はっきり言ってどっちもえらい飛ばしよんな、と思った。日本流にいえば「めっちゃ荒い運転」である。こりゃ事故もたくさんやってるんやろなと思った。しかし、ガイドさんに最初に言われたアドバイスによって、印象ががらっと変わったのも事実だ。


ガイドさん曰く「いったん道路を横断し始めたら、必ず最初のペースのままで渡りきること。クルマが近づいてきたからといって走ったしては絶対にダメ」だと。「なんで?」と聞けば、ドライバーの方で歩行者の歩く速さなどを計算し、ちゃんと避けてくれるからという答が返ってきた。ついでにとばかり「では、なぜ、みんなあんなに街中でも飛ばすのか?」と尋ねると、「たしかに飛ばしているけれども、みんな、四方八方まわりのことをちゃんと見てるから、事故はそんなに起こらないわよ」と。


そんなものかと思ってタクシーに乗ったときに注意して見てみると、確かにそのようだった。少なくとも我々の乗ったタクシーのドライバーは、とにかくクルマをうまく早く走らせることにとても熱心だった。ポイントはただ「早く」だけではないということだ。「うまく」ということには当然、事故を起こさないようにという基準が含まれているように感じた。


ここで話は大きくジャンプする。とんでもなく勝手な思いつきなので、その点はご容赦願いたい。


要するに日本とイタリアの事故率の違いは、民主主義の根付き方の違いにあるのではないかと思うのだ。そもそも民主主義とは、人はそれぞれ勝手なことを(自分に都合のよいように)考えるものだという前提に立っているのだと思う。だから最大多数の意見を持って納得するというルールができた。クルマの運転も同じではないだろうか。


イタリアンは、まわりを走っているクルマみんなが基本的にジコチューであるという前提の上で、だからお互い最低限のルールを守り前後左右につねに気を配ることで「うまく」「早く」クルマを走らせようとする。まあ、突っ込むなら「早く」に熱きラテンの血が入っているということだろう。


かたや日本はどうか。民主主義をどこかはき違えてはいないか。自分一人が異を唱えることを忌避し、人に合わせることを民主主義だと思っていないか。そしてここが最も重要なポイントなのだが、少なくとも自分の意識では人と同じようにしているのだから、自分が人に迷惑を掛けるはずもなく、よって人のことを気にする必要もないと思っている人が増えているのではないか。


これを日本的無意識のジコチューと呼ぶことにする。


自分はゆっくりと(つまり安全に)運転しているのだから、人に迷惑を掛けているはずがない。そう思いながら運転している人が、イタリアンのようにまわりを常に気にかける習慣を身につける可能性は限りなく低いだろう。その結果、戦後民主教育の洗礼をまともに受けた団塊の世代の方たちほど「日本的無意識のジコチュー」に陥っており、そのために日本の道路事情がどんどん悪化している。


なんてことを考えてみた。





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