四十歳からの空手9・見えない蹴り
「メガネはちょっと危ないっすね」
うすうすわかってはいた。基本稽古ならともかく、組手稽古は言うまでもなく、本当はミット稽古でもメガネをかけてやるのは危険なのだ。たとえば上段回し蹴りの稽古をするときなどはやばい。
少し話が逸れるが上段回し蹴りといえば、先輩が持ってくださるミットを狙って蹴るのである。それはいいのだが、蹴りがへちょい。ミットに当たった時の音も「パスッ」とか「プスッ」とかで、何とも情けないというか聞き劣りするというか。
まあ、足がうまく上がらないのだから、こればかりは何ともしようがない。家でせっせと柔軟体操に励んではいても、何しろ齢四十ともなれば、そうは簡単に凝り固まった関節はほぐれてくれない。股関節が固いと、まず上段まで足を上げることができない。さらに意外に知られていないかもしれないが、足に筋力がないとまともな蹴りを出すことは難しいのだ。
どれぐらいの筋力があれば、それなりの蹴りを出せるようになるか。目安は、超・スローな蹴りを出せることだ。膝を体の斜め横まで持ち上げて、そこから膝にリードされる形で足を折り畳んだまま水平に回していく。試しにやってみればわかると思うけれど、これ、ちょっとは鍛えていないとなかなかできません。
ふだん意識することはまずないけれど、足はとても重たいのだ。重い足を振り回すのが蹴りだから、少なくとも自分の足の重さをコントロールできるぐらいの筋力がないとまともな蹴りなど出せない。そりゃ、体を捻って目一杯勢いをつければ、それなりに蹴ることは不可能じゃないけれども、そんな蹴りはまず百パーセント役に立たない。俗にいうテレフォンパンチのキック版である。
理想は、できるだけ初動を小さく、しかし鋭く、強く、深く。初心者には難しい。ということがミット稽古を真剣にやらせてもらうようになってわかった。そして先輩の蹴りが、いかにえげつない威力を秘めているかということも身を以て感じるようになってきた。
だって、年明けぐらいからは、こちらが持っているミットを本気で蹴ってこられるようになったから(もしかしたら、まだまだ力は半分ぐらいだったのかもしれないけれど)。特に稽古が始まる前の自主練で「ミット持ってもらえますか」と言ってくる先輩がきつかった。この方も極真でやっていて、キックボクシングもやっていて、ときどき試合に出たりされているのだ。
その先輩が持参されるミットは、本格的な革のキックミットだった。だからミットそのものが重いのだ。これを持って、2分間のミット稽古に何セットもお付き合いさせてもらうことになった。ということは2分間、その重量感たっぷりのミットを顔の高さまで上げていないとならない。これ、きついです。いい加減、腕が上がらなくなってくる。
といってミットを下げると、マイ顔面がえらいことになる。試合に出るつもりぐらいの力のこもった蹴りを、万が一顔に食らったらどうなるか。想像するだに恐ろしい。しかし、腕はきっちりだるいのである。そして2分の終わりの方になると、ミットの重さに蹴りの重さが加わって腕がちょっとバカになってくる。そういうときに一瞬気が抜けたりすると、蹴りを受けたミットが顔を直撃するのだ。
すなわちメガネ・ガツン、である。メガネのフレームが当たって鼻が切れたことがある。さすがに、これはマズいと思った。
組手の時は、メガネを外すようにはなっていたが、すると今度は五里霧中状態で戦わなければならない。何しろ、ド近眼なのだ。メガネがないと向かい合っている先輩の顔すら定かではない。そんな状態なので、先輩が繰り出してくる技もろくすっぽ見えない(もっとも、見えたからといって、技をもらわないことにはつながらないことも後によくわかったのだけれど)。だから殴られるわ、蹴られるわ、さんざんである。
悔しいとか思う前に、痛いのである。このまま、ぼこぼこ(実際にはポコポコぐらいだけれど)突き蹴りをもらっていては、こちらの身が保たない。そう考えて、清水の舞台から飛び降りるつもりでコンタクトレンズを入れることにした。小学校5年生のときにメガネザルとなって以来30年の長きに渡って拒絶してきたコンタクトである。
ほんとは目の中に異物を入れるのが恐ろしくて避けてきたわけだけれど、そうも言っていられないのだ。好きなようにどつかれたり、蹴飛ばされたりするのがいいか、恐いのをがまんしてコンタクトを使うのがいいか。さんざん悩んだ末に、コンタクトを使うことにした。
あいにくワンデイユースのコンタクトでは、ド近眼に加えてド乱視でもあるために、ぴったりのレンズというのはなかった。それでも、メガネなしとは世界が違って見えた。そして、思いきってコンタクトをいれたことで、私の空手は一皮むけたのである、
なんていえればカッコいいのだけれど、実際はより恐ろしさがリアルになっただけだった。
昨日のI/O
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