若く見られたい、か?


男性57%、女性76%


あるネット調査の結果である。

ネットエイジアが50〜79歳の男女各250人を対象に実施した調査によると、男性56.8%、女性76.4%が「実年齢より若く見られたい」と答えた。理由は「自分に自信を持てるから」(62.2%)が最も多かった(日経MJ新聞2008年8月27日付2面)


そりゃそうだろうな。老けてみられるより、若く見られる方が良いに決まっている。自分だってそうだし。と納得しかけたのだが、記事を読んだ後、何かがひっかかった。まるで煮魚を乱雑に食べて、含まれていた小骨がのどに引っ掛かりでもしたように。


記事を読み返してみてわかった。すっと腑に落ちなかったのは、この部分だ。すなわち若く見られたい理由は「自分に自信を持てるから」。いや、これも正面切って異議を唱えようというわけではない。確かによぼよぼのおじいさんよりも、しゃきっと若々しい姿形の方が好ましいだろう。それはわかる。わかるのだが、である。


たとえば「若輩者」という言葉がある。広辞苑には「経験が浅く未熟な者」と記されている。あるいは「この若造が」といえば、それに続くのは普通「ろくでもねえことしやぁがって」といったマイナス評価を含んだことばである。まあ、稀には「意外にやるじゃねえか」といったプラス方向のことばが収まることもある。しかし、その場合でも前提となっているのは「若造」は「大したことはできない」という暗黙の了解だろう。


すなわち、若さには(この場合の若さとは外見だけを差すことばではない)かつてはプラスマイナス両方の意味合いが含まれていたはずだ。だからこそ以前は、「若く見られる」ことが自信につながるとストレートに考える大人は少数派だったのではないかと思うのである。むしろ年相応に見られることを望む人が多かったのではないだろうか。


だからこそ「あの人は、若いのに落ち着いていらっしゃって」などというほめ言葉が機能していたように思う。


ここで我が身を振りかえってみるに、外面をして「若いですね」と評されると、確かにうれしい。しかし、である。あと2年で知命に達しようかという自分の歳を考えれば、外見の若さがダイレクトに自信につながるとは一概には言いきれないのだ。


そして若く見られようが、老けてみられようが体の各機能は確実に衰えが来る。

老化を感じることは、男性が「体力の低下」「視力の低下」「白髪」、女性は「白髪」「顔のたるみ」「記憶力の低下」(前掲紙)。


幸い、今のところ極端な体力の低下こそ感じないものの、視力ははっきり低下している。それもメガネをかけて近いところを見ることができないというのは悔しい限りだ。そう、老眼である。だから小さい文字はメガネを外して、顔に近づければ読めるというわけだ。さらに白髪も増えている(一方で、髪の毛の全体量は減少傾向にある)。


ほかにも食事の量が減るとか、お酒も昔ほど飲めないとか、夜更かしに体がついていかないとか。空手の稽古をしていても反射神経が鈍くなっていることは切実であり、わが身に起こっている老化現象の進行ぶりは、この2〜3年かなり加速している。


にも関わらず精神面では未だまったく熟していない。このアンバランスさが、自分としてはどうもしっくりこない。とはいえ、一気に老け込みたいと思うわけではまったくなく、では年相応であればいいのかと問えば、その「年相応」とは一体どのようなものなのかがわからない。これがなかなか悩ましいところであり、まだまだ惑いっ放しである。


おそらくは孔子さんの時代と比べれば、平均寿命は今の方が明らかに伸びているのだから「三十而立。四十而不惑。五十而知天命。六十而耳順。七十而従心所欲」ではなく、これを十歳ほど後ろにずらして考えるべきなのかもしれない。ということはあと2年ぐらいの間には、何とか惑わないような自分の軸を持たなければならない。そういうものをしっかり持てれば、少しはしっかりするのだろう。




昨日のI/O

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昨日の稽古:西部生涯スポーツセンター・ダンススタジオ

<少年部>
・縄跳び/ストレッチ
・基本稽古
・ミット稽古
・受けの稽古
<個人特訓>
・顔面への突きの受けからの返し(首を取る、タックル、袖を掴む)
・一本組手(突きへの返し、前蹴りへの返し)
・自由組手(顔面あり)