黒帯拝受


黒帯をいただいた


8年前、40歳で空研塾に入門したときには、黒帯などというものは自分とまったく関係のない存在だった。当時、私が稽古していた道場で黒帯を締めておられたのは支部長以下3人だけ。その3人を見ていると
「ああ、なるほど。黒帯というのは、こういう人間離れした人だけがなれる特別な存在なんだ」
としか思えなかった。


その後、別のエントリーでも書いたように茶帯の先輩方の昇段審査を見学し
「ああ、なるほど。黒帯になるというのは、こういう人間離れした組手に耐えるということなんだ」
とその別世界観はさらに強まった。
その後も何人かの先輩の昇段審査を見せてもらう機会があった。そのたびに
「ああ、なるほど。黒帯になれるのは、こういう人間離れした体力や痛みに耐える力を持っている人だけなんだ」
ということがひしひしとわかってきた。


自分でも少しは組み手をやるようになって、わかってきたことがあったのだ。つまり、人が本気で相手を倒すために、持てる技と力のすべてを出し手向かい合えば、どれだけきつい攻めになるのか。空手の恐さみたいなものが、ちょっとは見えるようになっていた。さらに普段の稽古と真剣な組手は似て非なるもの。そこには技の連続性はあるけれども、気持ちはまったく非連続的なのだと思うようにもなっていた。


稽古での組手は、自分の技の向上という目的がまずある。だから相手ごとに自分なりのテーマを持って取り組むのが理想だ。先輩が下の者を相手にするときには、相手の技の向上も考えてくれている。稽古のときには、お互いの技の上達が目的なのだから、そうやっていろいろ考えながら組手をすることが大切なのだ。


ところが本当の意味での真剣な組手は、自分はほとんどやったことないので実際のところは推測するしかないのだけれど、たぶんそんな生半なものじゃない。たとえば相手がたとえ親兄弟であっても倒すつもりで、というのが極真空手での組手の心構えだと聞いたことがあるが、倒すつもりという気持ちさえ、もしかしたら余分なのではないだろうか。


勝手に想像を飛躍させるなら、理想は何も考えないことじゃないかと思う。倒すとか倒されないとかではなく、自分がその時点までに身に付けた技や培った術あるいは養った力をすべて出しきること。そのために邪心は何もない方がいいのではないか。自分が居て、相手が向かい合っている。その相手すら意識することなく、ということは恐がることも逆に見くびることもなく、相手の技だけに感応し、できるなら技を読み、そして見切る。


その技を受けて返す。あるいはその技が繰り出される前に押さえてしまう。場合によってはその技に合わせて、こちらの技を出す。無駄に力を込めることなく、あえて力を抜くこともなく、ごく自然な動きの中で。そんな組手をできる者だけが、黒帯を締めることを許されるのだということが何となくわかってきて、黒帯はさらにはるかに高い雲の上の存在になった。


だから何とか茶帯までは取らせてもらったけれども、自分はそこまでだと諦念していた。もちろん茶帯で満足しているわけではない。そのレベルでとどまるつもりもない。できるなら少しでもうまくなりたいとは切に願う。けれども、いくら稽古をがんばって仮に少しずつうまくなるとしても、その延長線上に黒帯はないと悟ったつもりになっていたのだ。


ましてや、もう五十前である。目肩腰膝が弱りつつある。おまけに高血圧を患っており、一時は医者に「運動は一切ダメです。ましてや息を詰めて真剣組手などやれば、いつ頭の血管が破裂してもおかしくありません。それは自殺行為ですよ。まだお子さんが小さいんだから、お父さんはもっと別のところでがんばらんといかんでしょう」とじんわり脅されたりもした。


体は衰える一方であり、にも関わらず黒帯というハードルは少々飛び上がったぐらいでは決して届かないことがわかってきたのだ。だから黒帯になることは無理、それならば茶帯のまま行けるところまでがんばろう。そんなふうに気持ちを決めていたのだ。


ところがある日、塾長から、黒帯を取らせるからと言ってもらった。自分の心の師範からも、何とか黒帯を取りましょうと励ましてもらった。そのため塾長は特別に毎週土曜日、わざわざ大阪から組手の稽古をつけてくれる先輩を連れて来てもくださった。一般部の稽古も顔面を意識した(ということは私の稽古になるということだ)内容をメインに替えてもらった。


その結果の組手審査については、すでに書いたので繰り返さないけれど自分にとっては、審査までの稽古が得難い体験となった。いくら手加減してもらっているとはいえ、顔面ありの組手稽古は相当きつい。たぶん血圧も相当に上がっていたのだろう、土曜日の稽古の後は気持ちが高ぶってなかなか眠れなかった。そして、すごく緩くやっていただいているにもかかわらず、土曜日の稽古が憂鬱になったこともあった。


そんな四ヶ月を送れたこと、これこそが自分にとっては何よりも貴重な経験であり、人生で得た宝物の一つだと思う。昨夜いただいた黒い帯は、その証であり、この宝物を手にするまでにどれだけたくさんの人の後押しを受けたか忘れるな、という戒めでもあるのだと思う。この帯を締めて稽古する時は、そのことを必ず思い出すようにしてこれからも励んでいきたいと思います。


渡邉塾長、中西さん、尚さん、愛甲先輩、そして奈良道場の諸先輩、一緒に稽古してくださった皆さん、ありがとうございました。押忍。



昨日のI/O

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