文章はまろやかに


最低100回


野口悠紀雄先生は、推敲を重ねるという。繰り返すほどにわかりやすく読みやすい文章になるというのだ。その通りだと思う。たとえば、このブログはほとんど読み返していない。書いた後で一回見直し、よほどおかしいところがあれば少し手を入れるぐらいだ。


だから、同じ言い回しを何回も使っていたり、ときに文章の流れが意味不明になったりする。まあブログなのでそのあたりはゴメンナサイということにしているが、あとで読み直してみてよほどおかしいときは編集することもある。


これがメルマガとなると、一応ひと晩は寝かせるよう心がけている。一夜次の日の朝、前日書いたテキストを読み直してみると、必ず訂正をいれるべきところが見つかる。ただしメルマガはさすがにひとたび配信してしまうと読み直すことはまずない。一回だけの推敲なので、これまた上がりはそんなにクォリティの高いモノとはなっていないのだろう。


もちろんきちんとギャラをいただく文章の場合は、そんないい加減なものを出すわけにはいかない。よって推敲を重ねることになる。野口先生のようにいつも百回というのはなかなかできないが、推敲を繰り返すほどにましな文章になることはまず間違いない。


このあたり、絵とは少し違うのかもしれない。


以前、ある洋画家に話を伺ったことがある。そのとき印象に残ったことばが「油絵は、どこで筆を置くかが勝負なのです」だった。手を加えようと思えば、キャンバスはいくらでも描き込むことができる。とはいえ、あるレベルを超えて描き重ねていくと、最初に表現しようとしていたエッセンスがぼやけて絵が死んでしまう。そんな話だった。


ところが文章は違う。少なくとも自分の経験の限りでは、推敲を重ねるほど仕上がったテキストは『まろやか』になっていく。なぜだろうか。


小説や詩となると少し事情が違ってくるのだろうけれど、大半の文章は書き手の考えていることを誰かに伝えるために書き出される。ここがポイントではないか。つまり人は頭の中でいつも何かを考えているけれども、自分の脳みそのなかだけで転がしている考えは、人にわかりやすく伝わるような形にそうそう簡単にはまとまったりはしないのだ。


書くことは、すなわち考えることである。これが逆に、考えることすなわち書くことであるとまでは、たぶん言えないと思う。ただ自分の考えていることを人にわかってもらうためには、何らかの形で頭の中の考えを外に出さなければならない。そこでたいていの場合は、しゃべることになる。


だが、しゃべってしまうと、吐いたつばは飲めないのである。そこでうまく思っている通りの内容が、自分の思い通りに相手に理解してもらえればいいのだが、そんなことはまずない。というか、ほとんど百パーセントあり得ない。


そこで書くのだ。結婚式のスピーチだって何だって人前で改まって話すときには、たいていの人は原稿を書くはずだ。その理由は、書いてみることで自分の考えをいったん、自分の外に出せるから。紙に(あるいはモニターに)映し出されて「見る」テキストは、自分の中にあったもやもやとは異なりとりあえずいったん客体化される。


客体化された文章は、自分の脳みそのなかであれこれ考えていたときよりも客観的に眺めることができる。自分としては非の打ちどころなどまったくないと思っていた論旨が、改めて眺めるにいかに我田引水か、とかあるいは思いっきり論理が飛躍しているかといったことが明らかになる。


つまり、いったん書き出すことで、自分の思考と改めて客観的に向かい合うことができるのだ。そこで、さらに考えを深めるなり、広げるなり、はたまた絞り込んだりしてみる。然る後もう一度、書き出す。見直す。といった作業を繰り返すことで、当初の思いつきが徐々に人にわかってもらいやすいテキストへと昇華されていく。


これが推敲を重ねる最大のメリットなのだろう。もちろん同じ用語を繰り返さないよう言葉を選んだり、同じ文末が続かないようにして文章に変化をつけたり。あるいはテンやマルの使い方、一文の長さなどを工夫することで文章にリズムをつけたりすれば、さらに読みやすい文章となる。


が、読みやすさを決定的に支配するのは、やはり考えの流れだ。ふんふんなるほど、その通りや、だからそうなるんやな。ようわかった。といってもらえる文章をいつもさらさらと書けるようになりたいものだ。



昨日のI/O

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野口さとこ社長インタビュー
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