神は細部に宿る


昨日の塾長指導を受けていて、再び三たびそう思った。


昨日教えてもらった稽古は、たったの一つだけ。ステップである。早い話が移動である。あるいは体捌きともいう。要するに組み手立ちの構えから前後左右に動く。たった、それだけ。


そんなんで稽古になるの? と訝しむ向きもあるかも知れない。ところがである、情けないことにこれが十分稽古になる。なぜか。答えは簡単、未だにきちんとした武道的動きをできていないからだ。


自分の体を前後左右、わずかに一歩ずつ動かすだけのことが思い通りにできない。ポイントは「思い通りに」動かすことにある。これが武道では決定的に重要なのだ。


すなわち組み手立ちの構えから、すっと一歩だけ前に動く。もっともロスなく、自然に滑らかに。これが理想の動き方である。塾長は半紙の上で動いて、足で半紙を破らないようになるのが目標とおっしゃった。


言うまでもなく無駄のない動きが、最短で相手に届く動きになる。加えて滑らかにということは「せぇの」といった感じの体の起こりがないということでもある。対面している相手からすれば、いつの間に動いたのかわからない。すなわち、こちらの技が一方的に入るわけだ。この動きができれば、おそらく「先の先」と取れるのだろう。


体の起こりを消すということについて。動くときには下半身を使う。すなわち上半身は動かない。だから相手がこちらの肩のラインを見ていても、動き出しがわからないということだ。組み手の際の目付の基本は、相手の肩である。であれば、この動きをマスターできれば組み手でも有利になることは必定といえる。


これだけでも十分に難しいのだが、稽古はこれで終わりではない。たとえば後ろへ下がる、あるいは左右に一歩だけ動く。前後左右、まったく同じように動けなければ意味はない。


そのすべてにおいて動きだし、動いている間、そして動き終わりが肝心なのだ。では動き終わった時とはどういうシーンを意味するか。基本的には相手の何らかの攻めを動くことによって交わした後である。すなわち、こちらが何らかの技を返すタイミングである。


そこで間髪をおかず技を繰り出せるのか。それとも一度構え直してから攻めに転ずるのかでは、わずかとはいえ間が違ってくる。この間が決定的に重要だ。もちろん相手の技をかわした後は、相手が出した技を引ききる前に攻めるのが理の当然。攻めた後、防御の態勢に入る前に攻め技を出すことができれば、それだけ決まる確率は高い。


そのためには動いた後の自分の構えが重要なのだ。そこで動き出すためには、どちらかの足に重心が乗っていなければならない。両足に均等に重心がかかった状態から攻めを繰り出すことはできない。攻め技は必ず、左右どちらかの足に重心が乗った状態が起点となる。すなわち攻めをかわして動いた後の足の位置(半前屈と教わった)と重心のかかり具合を意識しなければならないのだ。


まとめるなら、単純な前後左右へのわずか一歩の動きの中に、いくつものチェックポイントがあることになる。両足の左右の幅(動く前と動く後で同じ幅を保てているか)、両足の前後の幅、重心のかかり具合、足の裏を床から浮かさず引っかからず、上半身は静かなまま(頭の上にリンゴでものせると良いと教わった)。


この動きを四方向で、まったく同じようにできるか。普通はまずできない。それだけ人間の体は歪んでおり、自分なりのクセがついているから。クセがあるということは、クセを見破られれば、そこを狙って攻められるということだ。だから武道ではクセはまず、徹底的に矯正しなければならない。


仮にこの動きだけでもマスターできれば、そこからが本番である。次は動きの後に返しの攻め技を入れていく。たとえばワンツーであり、鈎突きであり、肘撃ちであり、前蹴りであり、関節への足刀であり、回し蹴りである。これだけを前後左右、左前・右前で同じようにできるようになるためには、一体何回同じ動きを繰り返さなければならないことか。


しかも、きちんと動くのだという意識を持っての稽古でなければならない。逆に意識して稽古しなければ、ステップは単なる体操になる。が、この稽古は体力勝負でもスタミナ稽古でもない。歳を取っていても必ずできる。できるようになれば、身のこなしが間違いなく洗練される。どこまで奥が深いのかわからない。だから空手の稽古はおもしろいのだ。


昨日のI/O

In:
テロリズムの罠/佐藤優
Out:
龍谷大学・北川教授インタビュー原稿

昨日の稽古:西部生涯スポーツセンター・ダンススタジオ

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