先生という響きのこそばゆさ


そこには15人ぐらいの大学院生がいた


その人たちから「先生」などと呼ばれる。実に妙である。何かおかしい。というか非現実感さえある。もしかして集団インチキに引っ掛かってるんじゃないか(さすがに、それはないんだけれど)とか思ってしまう。そりゃ確かに、子どもたちに空手の指導をしているときに「せんせえ」と呼ばれることはある。それだけでもちょっと居心地の悪さを感じたりするのだから。


いや、別にその「先生と呼ばれるほどのばかじゃなし」なんてことをいうつもりはさらさらなくて。単に自分の中にある「先生と呼ばれるべき人物像」に対して、自分で認識している自分像があまりにもかけ離れているが故の居心地の悪さに過ぎないのだが。


とはいえ、例えば空手の稽古で、自分がみんなの前に立って、稽古する技の順番を決め、それぞれの技のポイントを説明し、それをやってみせるというのは、確かに先生の役割である。だが、ここでも一つ引っ掛かりが残るのは、模範といえるほどの動きを「やって見せ」られてないんじゃないかと思うからだ。


特に股関節のやわらかさ、脚力の強さが如実に表れる外回し蹴りや上段回し蹴りなどになると「いや、わしの真似したらあかんで!」と言い訳しながらの動作になる。このあたりがもどかしいというか、歯がゆいというか、情けないのだ。


柔軟をしたり、スクワットしてみたりで何とか、少しでもましな技を見せようと努力はすれど、悲しいかなだんだん体の切れは悪くなるばかり。決して負けたくないし、それを言い訳にもしないけれど、寄る年波というのは確かにある。だから、あえて「先生」と呼ばれることを受け入れて、人を教えるにふさわしい技を見せられるよういつまでも努力せい、と言ってもらっているのだと勝手に解釈している。


とまあ、空手の場合はさておいて。


これが東京大学の大学院生の方々から「先生」と呼ばれるとなると、ちょっと事情が変わってきやしないか。これまた以前、寺子屋をやっていて、子どもたちに何かを教えようとはしてきたことは確かにある。が、そのときも先生と呼ばれるより「おっちゃん」とか「広くんのパパ」と呼んでもらう方を好んだ。


だから逆に自分から話しかけるときに「先生は」という主語の立て方を堂々とすることができず、かといって「おっちゃんは」では変だし、じゃあどういえば良いんだといつも悩む羽目になった。結局、聴き取れないようなぼそぼそした声で「おれは(本当なら子ども相手にオレはなんていっちゃいけませんね)」なんてことを、言ったか言ってないかわからないような早口で済ませ、続くセンテンスを明確に発音することでメリハリをつけていたりしたのだが。


空手は、それなりに「うまくなろう」と意識し努力もしてきた。しかし寺子屋で教える内容については、空手ほどには努力していない。フィンランド式の国語などは自分でもおもしろいと思い勉強はしたが、それはあくまで自分のための勉強だったような気がする。早い話が先生と呼ばれるほどの努力は決してしていないわけだ。


こう考えてくるとなるほど、先生と呼ばれて「居心地妙やけど、まあええやん」ぐらいに思えるかどうかは、そのテーマについて自分がどれだけ一生懸命に学んだかによるのかもしれない。合格レベルは、そのテーマについて人に何かを語る、できれば教えることができること、だろう。逆にいえば、先生と呼ばれて妙な感じを覚える間は、まだまだ自分の学びが足りないということではないんだろうか。


そんなことを,改めて考えさせられるとてもよい経験となった。東京大学大学院情報学環での拙い話にお付き合いいただいた皆さん、そしてチャンスを与えていただいた石崎教授、どうもありがとうございました。自分にとっては、ぼやっとしていた考えをまとめ、人にわかるような説明の組み立てを考えるとても良い機会となりました。




昨日のI/O

In:
『「諜報的生活」の技術』佐藤優
Out:
東北大学川島隆太教授インタビュー記事
同志社大学・橋本教授インタビューメモ


昨日の稽古: