記事はどうやって書かれるか


歩道に車 8人はねる


この間の日曜日、お昼前ぐらいに家の近くでセンセーショナルな事故が起こった。たまたま出かけようと家を出たところ、消防車のサイレンがけたたましく鳴り響いている。音からすれば何台も集まってきているようだ。重なるように救急車のサイレンも聞こえてきた。そして、すぐ近くで止まった。


えらいこっちゃ、火事ちゃうか! 急いで音のする方に向かい大通りに出てみると、前方に人だかりができている。目的地の駅もそちらにあるので、ずんずん歩いていくと、とんでもない事故が起こっていることがわかった。とりあえず歩道をまるまるクルマがふさいでいる。しかも、なぜか後部を道沿いにある商店に突っ込ませ、フロントは街灯に斜め向きに衝突している。


もちろんクルマはめちゃめちゃに壊れていた。その脇にストレッチャーが一台置かれていて、女性が乗せられている。まだ事故が起こった直後だったのだろう、警察も到着したばかりといった案配で、現場検証も始まっていない。ともかく何人かいる負傷者の手当てや、まさに急いで搬送にかかろうとするところだった。


何が起こったのか、その時はよくわからなかった。衝突事故なら相手のクルマがあるはずと、まわりを見渡してみたがそれらしいクルマはない。仮に自損事故だとすればわけがわからない。一体どんなふうに運転を誤ると、こうもややこしい突っ込み方になるのか、まったく想像がつかない。


先を急がなければならなかったので、とりあえず現場を離れた。振り返りながら歩いていると、ようやくマスコミが駆けつけてきたようで、カメラマンやムービーを撮っているスタッフがいた。


夕方戻ってテレビを点けると、どのチャンネルのニュースでも事故のことを伝えていた。通り沿いにある呉服屋さんの駐車場から出てきたクルマが、通りと店との間にある歩道を突っ走ったのだという。運転していたのは呉服屋さんの駐車場係、パートで働く64歳の男性。報道によれば、彼は「車を運転していたかどうかもわからない」と答えているらしい。


これが事故の概要である。そして次の朝、地元紙の朝刊を見てびっくらこいた。なぜなら新聞には次のように記されていたからだ。

市民や観光客でにぎわう休日の繁華街が瞬く間に、悲鳴に包まれた。ガラスが割れるような大きな衝突音が響き、歩道上や車道に多数の男女が倒れた。安全なはずの歩道を車が暴走した烏丸通の交通事故。通りかかった医師は応急処置に追われ,けがを負った人の友人たちは青ざめた表情で、救護の様子を見守った。
事故直後の現場に、複数の男女がうずくまっていた。幼子を抱きかかえて座り込む母親もいた。サイレンを鳴らした救急車が次々と到着した。(京都新聞2009年6月22日・朝刊17版・27面)


まさに、いま見てきたといわんばかりの迫力ある描写だ。が「救急車が次々と到着した」時点では、まだ記者は現場に到着していなかったはずだ。もしかしたら、すでにどこかで取材活動を始めていたのかもしれないが、こちらが現場を通りかかった時(=まさに救急車が到着したところ)にはまだ、少なくとも自分の近くには記者らしい人はいなかった。


くどくど書いてきて、結局何が言いたいのかと問われれば『新聞を読むときは、気をつけんとアカンなあ』とつくづく思ったわけだ。もちろん、記者は現場に到着してすぐに取材を始めたのだと思う。その頃にはまだたくさん人が残っていたはずで、中には事故を目撃した人もいただろう。そういう人たちから話を聞いて、記事を書いた。


その記事は上に引用した通り、真に迫っている。何も知らない人が読めば「ひどい事故があったんやな」と納得するだろう。自分自身でも、現場をたまたま通りかかっていなければ、同じような読み方をしたに違いない。だからこそ、恐いなと気づくことができたわけだ。


当たり前ではあるが、新聞記者はプロの書き手である。だから、目撃者から丹念に話を聞けば、これぐらいの記事はさらさらと書き上げてしまうのだろう。そう、まるで記者自身が現場で事故を、あるいは事故直後の状況を見たかのように。


だが、まず間違いなく、私が現場にいた時点では記者はいなかった。つまり記者氏は、自分の目で確かに見たわけではない状況を、その眼で見届けたように書いている。それによって記事には臨場感があふれることになる。真に迫ったかのような記事の内容を、誰も疑いはしないだろう。


もちろん、今回の報道が間違っているなどとケチをつけるつもりでは、まったくない。記者氏の筆力はさすがにすごいな、と物書きの端くれとして素直に感じ入りもする。しかし、新聞記事のすべてが、記者が自分で実際に目にした事を書いているわけではないことを、今回の記事はきっちりと教えてくれた。


もとより、そんなことは今さらいちいち言うまでもないことなのだとは思う。が、個人的には新聞に書いてあることの意味を考え直す、とても良い機会になった。つまり、誰かが何かの意図を持って記事を書いているのだということを。



昨日のI/O

In:
『墨東綺譚』永井荷風
Out:
京都大学・手良向教授インタビュー原稿


昨日の稽古: